小松菜の声

盆が過ぎると、赤紫蘇が刈り終わったウエンダの畑に賀茂から老舗農家がすぐきを栽培しにやってくる。

圃場に肥料堆肥をすきこみ、9月の入りには播種をし、おおよそ2ヶ月後には収穫をむかえ漬け込みに入る。スピードが命のすぐきの栽培は、間引きを速やかにこなすのが肝心だ。間引きという作業は、人の都合に合わせた規格や効率を求めた収穫物をつくるために、収穫時期を見定めながら生育の悪いもの、病気のあるもの取り除き、健康な個体がしっかり日光を浴びられるように取捨選択する。ここが疎かになると、漬物に適した大きさに十分に育ったすぐきが収穫できないばかりか年末の漬け上がりにまでひびいてしまう。まさに目標から最短の逆算する業で、植物の生理を把握し、的確に人の手を入れながら、しっかりと生業として成立させる老舗農家の仕事には感心する。

一方で、間引きをしながら、それも出荷し、ゆっくり育てる呑気なぼくの畑である。栽培期間が長くなる分、時折、思いがけないところで逞しい生命力をみせる野菜の姿を目にする。2月、大雪の積もる中、出荷の品数に困りふとある畝をのぞいた時のことだ。去年9月に種を撒き、収穫を終えたはずの畝に、小松菜が立派に葉を張り糖度を蓄え大きく育っていた。陽があたり成長が早い株の陰で、本来間引かれるはずのひ弱な株だった。年が明けたら土に鋤き込もうと思っていたが、多忙で放置したままになっていた。その名残の株が立派に成長していたのだ。ぼくは、雪を払い濃緑で厚い小松菜の葉の感触を確かめた。そして、植物は、ひとたび人間の都合から自由になるといろんな命のあり方を見せてくれるものだと無性に感動した。

先日、小学3年になった長女が、お世話になった保育園の夏祭りに招待された。ゲームや飲食、フリーマーケットなどの出店に混じって、家族総出で野菜の販売をしてきた。数年ぶりの開催で、ぼくも妻もブースを離れられないくらい人出が多く賑やかになった頃、長女の姿を見失い、妻が探しに行った。しばらくして、長女が一人でテーブルについて、嬉しそうにかき氷を食べているのを見つけた。彼女はまだはっきりと「かきごおり」と発音できない。てっきり誰かに買ってもらったものと思い、妻が「誰に買ってもらったの?」と聞くと、保育士と保護者がそばに来て「花ちゃん、自分でお金出して買ってたよ。私たち、そっと見ててん」という。

ぼくも妻も、心のどこかで長女はまだ十分に話せないから、保育園が同じ友達と会っても十分に楽しめないのではないかと、思っていた。妻は少しでも長女が楽しめるようにと一緒に買い物をするつもりで、保育園の時から使っていたお気に入りのバックの中に小銭が入った小さな財布を入れた。親の気をよそに、ハンデがあっても長女は自分のペースで自由に楽しんでいる。それを持って一人、大好きな赤い色の、イチゴ味のかき氷を買いに行ったのだ。

大勢の子どもたちが遊んでいた。野菜を売りながら一息ついた頃、いつしかあの大雪の中で青々しく力強く葉を広げていた小松菜の姿を思い出した。「大丈夫だ。だれにだって陽はあたるものさ」と、彼らのかすかな声が聴こえた。