全国版コラム 大皿こぼればなし

安
小学生の頃、近隣の子供たちは縦につながり仲が良かった。帰宅して母の包んでくれるお菓子の袋を鷲づかみにして外に飛びだしてゆく。フルヤクンとタマコシクンの中学生二人は僕たち小学生のリーダー的存在だ。いつもの場所、いつもの面子、いつもの時間。学帽の二人が中心になり指示を出す。山に行くか、川に行くか…二者択一。山ならばツルツルテッカンヤマ。川ならば町の真ん中を流れる宮川。

ツルツルテッカンヤマの奥には基地があった。途中にある地肌がむき出しで急こう配の斜面は僕には難所であった。登ると滑り、また登るとまた滑る。ぐっと頭上にある上級生の分厚い手。「よいしょっと」僕を引き上げてくれた。もうぜったい滑ることはない。安心して岩に腰掛け下をみると吸い込まれるくらい高いところにいる。全員が基地に集まるとお菓子を分けて食べ小休止。しばらくして指示が出る「狩りに行くぞ」―学帽を先頭に出発する。手にはタモ、バケツ、木の枝、それぞれ思いの装備をして、川の裏手のゆるやかな斜面を下りて宮川にでる。川面に遊んでいる小魚の群れに気づかれぬようそっとタモで掬い取る。獲物をバケツに入れて、川岸の背丈より高い葦の茂みを木の枝でたたきながら次の獲物を探す。しばらくして「オー」とか「ワ―」とか、なんだか先頭のざわめきが尋常でない。僕はバケツの水をこぼしこぼし、急いで追いつく。「りっぱな小玉西瓜だ」―その当時、生ごみは川に捨てられていた。流された残飯のその種は強運にも岸に根付き成長し実をつけたのだ。学帽のリーダーのひとりが小刀で切り落とし両手で持ち上げた。

小魚は廃材の鉄板で白焼き。空腹が調味料になり友の顔と顔が宴をもりあげた。西瓜はたたき割り、ざっくりとした野趣いっぱいのおいしさを分け合った。ひとしきり騒いでふとみんな黙る…「帰ろうか」「うん」「うん」―陽の沈みかけた町は色を変え、家路へと背中を押してくれた。子供の獲物は腹を満たすことなく、夕ご飯の前菜に過ぎなかった。この獲物との出会いは何物にも変えられない。懐かしく思い出す大切な味覚である。

小魚と西瓜を喰らう飢餓の夏    宗介

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水

梅雨に入る前の五月晴れ、梅仕事をはじめた。店頭には小梅、南高梅、白加賀の順で並んでいく。粒の大きさ、用途そして値段をいろいろ加味して、白加賀を家族と梅好きの知り合いの人数分五キロぐらい購入。帰宅して袋を破り青梅をボウルに移す。するとあっという間に梅の青すっぱい香りが周辺にふわっと起ちあがる。梅仕事のベルが鳴ります。

「青梅はそのままで食べたらお腹こわすよ」と母から聞いていたので食べることは絶対にしない。でも梅の香に包まれ、手頃の大きさの実を手にするとついつい口元に運び…一口申し訳ない程度にかじっちゃう。そして間髪いれずにペッと吐き出す。鼻にすーとぬけていく青き爽快感。梅ひとつひとつに気持ちが入っていく気がする。夕刻、ボウルに梅がひたひたになる位水を張り、一晩置きアクを抜く。浮いてくる梅は不良品。キズがあるもの、打撲を負っているものはこの時点で不良品。取り出して分けておく。次の仕事―梅の「へた」を爪楊枝で取る。ひたすら頭の中を真っ白にして手元にはプツプツ「へたの抽象」が新聞紙の上に描かれる。次に肝心の塩分量。以前、健康を考えて塩の割合を少なくしたら大失敗した。今年は梅全体量に対して15パーセント。経験からかびることの少ないお手頃分量なのだ。樽の中に、塩、梅、塩、梅、の順の層状にして最後に塩を敷く。この後、樽を動かすことはぜったい厳禁。塩のいきわたりのバランスを崩すことになるからだ。重しをやさしく乗せて「梅酢」があがってくるのを待つ。数日するとたっぷりの梅酢の中に梅が沈み、透明感がまぶしい。ここまで来るとほぼ成功したと思っていい。紫蘇で色づけするか? このままでいくか? 結局このままでいく梅漬けを選択した。数か月後に蓋を開けるときの期待とほんの少しの不安。年に一度の「初物」に会えることが少なからず生きる力になっている気がする。

良品はカリカリの梅漬けになり、不良品はとういうと・・・捨てられることなく小さい鍋のシロップ煮で楽しんだ。毎年僕の中で梅ひとつひとつが散ることのない二度目の花を咲かせてくれる。

まん丸にしわをよせあう梅仕事    宗介

 

 

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火

その日。「よし、干しものを作ろう」。思い立ったら吉日。開店したばかりのショッピングセンターに出かけた。下りエスカレーターを降りる。その前は野菜売り場で緑が美しい。本日の特売品・だいこん1本35円。鮮魚売り場に行く前に足止め喰らってしまった。「切干だいこん」―これでいこう。だいこん8本をカートに載せてレジで清算、計280円。値段のわりにずっしり重い。二袋に分けて両手で持ち、筋トレしながら持ち帰る。呼吸を整えて一息つき、ピーラー、包丁、まな板を用意して腕をまくり「いただきます」と心で唱え、ブツブツ四等分にする。皮を剥いて薄くして、拍子切りにすると量が増えるは増えるは。ボールは一杯になり零れるは零れるは。「だからいったじゃない」。案外ひとりでものづくりをしている時、自分と話しているものだ。ジャ・ジャーン、ここで登場。色は青、三段構えの「干しもの便利器」。何年ぶりだろう。袋から取り出す。吊るして、畳んで、また吊るして畳む。虫は付かないし衛生的、しかも造形的にかっこいい。

ここでちょっと脱線。妻の故郷北海道瀬棚町に行ったとき、出会ったものがすごかった。「ホッケ乾燥機」―それは回転軸の中心に数匹のホッケの尾びれを放射線状に固定してぐるぐる高速で回転。まるでホッケの団体演武さながら円形を描き、ぐわんぐわんと音を出す。もちろん虫など流暢にとまる隙などあたえない。一定時間回したらホッケの干物ができていた。食べてみるとすごく美味しい。けれど、すこし眩暈がしたのは気のせいか。

話を元に戻そう。拍子切りにした1本1本を、なるべく重ならないように一段一段並べていく。8本のだいこんが形を変えて一つの部屋に納まっている。いざ吊るそうとするとかなり重い。軒下に片手で「よいしょ」と吊るす。数日間全身で陽を浴び、風を受ける。水分は蒸発し、旨みは凝縮し身はひきしまる。皺が寄り、縮れていく。白色は一度半透明になり、光沢を失い、紙のような質感に変化する。あるものは細く小さくひとりで舞い、あるものは隣と手を組み「クルクル」踊る。全部を新聞紙の上にがさっとひろげる。乾ききった干物はカサカサと眩しい。熱を冷ました後、ジッパー付きの保存袋に小分けする。冷暗所に大切に保存して、共に並進してきたことに終止符を打つ。 だいこんを干すことと僕の日常―このふたつの事象がいきいきと時間の上を闊歩する。呑気である心持、原始の人間が誰しも持っていた芳醇さ、豊かさへのキップ。「大金をかけなくても、ちょっとしたことで、時を実感でき楽しめる」今度は料理に使い、ぎゅっと抱きしめた、時と旨みを堪能したい。

水を得て 時巻き戻す 干しだいこん     宗介

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ふ

保育園に通っていた頃、ラップがパンと張った上からトレーの巨峰の実をこっそりと押して楽しんだ。子供にとってこの感触が何とも言えない。たまに力の加減で潰してしまうこともあり、猿以下の僕は決まって母に叱られた。魚の「まなこ」は潤潤して、押したい衝動に駆られるけれど―できない。「まなこ」の奥深さに飲み込まれそうだし、大海を一匹で泳いでいた威厳を感じていたのかもしれない。以来、魚には距離を置いて感心しながら目で楽しんでいる。

魚は僕にとって特別な存在だ。中でも青魚の鯖にはお世話になった。学校から帰宅し、ランドセルを玄関に放置する。ブタの貯金箱から小銭を出し、一路スーパーの鮮魚売り場へ行く。鯖のパックを購入。まんまるに太った体がラップを盛り上げてひんやり冷たい。自宅に急いで帰り、母の見よう見まねで三枚おろしにする。切るには程遠く石包丁でちぎるに近い。背骨は太り肝心の身の部位が薄くなる。未熟者が一人でやるのだから致しかたない。笊に皮面を下にして、たっぷりの塩を振る。臭みを取り、きゅっと締まった身を軽く洗いヒタヒタになるお酢にしばらく漬ける。お酢は身を白くしつつ旨みを引き出す。たまにそっと覗いてみる―この時間が最高だった。手間を掛け、時を費やし作り出す。やがて身は反りだし〆鯖へと変身する。「料理の醍醐味はここにある」と子供ながらに全身で感じていたと思う。

さあ、これからがクライマックスの始まり。お酢の中から〆鯖を引き上げ、余分なお酢を拭きとる。艶はいい。〆かたもいい。薄皮の入り口を探りあていっきにピーと引く。やっと出会えたこの姿―うれしかったことうれしかったこと。板皿に自分なりに季節の花を近場から摘んできて添えて、削ぎ切りにして盛りつける。あとは家族の帰りを待つ。母の作る栄養いっぱいのおかずに隠れ、食卓の一品になるのが常だった。珍しいことも手伝って、家族満顔えびす顔で喜んでくれる。「うれしいから明日も」と、凝り性の僕は数日作り続けた。当然のことながら僕のテンションとは反比例し、〆鯖は食卓から消え落ちていった。

今から思い返せば、おなかが中らなかったことの不思議。どんな魚も鮮度が良かったからか、体に抗体があったからか。いずれにせよ過去の大切で幸福なひとこまに間違いない。今でも居酒屋に行けば必ず〆鯖を注文する。〆鯖はほんとうに旨い。そしていつも思いあたることがある。「その味が店の良し悪しを決める」―如何なものか?

皮引けば顔を出したる碧き海     宗介

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風

きしめんは、大好物の一つである。うどんより薄くて半透明、喉越しよろしく形状もいい。地方によって呼称は異なるらしい。「ひもかわ」「ぺろっこ」と耳からも楽しい。

二月のある木曜日の午前のこと。昼食の青写真をルンルンで描いて、食材の買い物に出かけた。テーブルの上には、ふわふわのおぼろ昆布、その上にかつおの削り節がのった二層構造のどんぶりが匂い立ち、笑顔の自分が食べている。その予定だった。しかし、なのだ。自転車の前のかごに入れたままにして置いたのが間違えだった。無い、無いのである。ビニール袋は無残にも破られて主役のブツが消えている。見上げれば上空にカラスの黒、黒。こちらを笑うかのように悠々と旋回しているではないか。自分VS.カラスの図式で、敗者は自分。ひらひらと天空を舞っている。手の届かないところにきしめんちゃんは行ってしまった。さようなら僕の昼食。決して泣きません。笑ってカラスに手を振ったりして…。重いペダルを踏みながら、色褪せたイメージを頭の中に描いていた。麺不在食卓 ― まぁいっか!

考えてみれば、毎週木曜日は可燃物収集日。忘れていました。室外に食べ物を放置することはもっての他なのだ。貴方のブツは、狙われています。お互い気をつけたいものです。

袋破り ちょっとそこまで 一麺旅     宗介

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宴会は、店より自宅かな。家飲みは、いろんな意味で今やおおモテだ。経済的であり一人一品持ち寄りで、卓上は大賑わいになる。参加者の家の味が楽しめて最高だ。自分と言えば、「水餃子」が多い。中身のアンは予め用意する。現場で皮を包みながら、水餃子の生い立ちを眼前で披露する。ちょっとした食する前のライブ。笑顔と笑顔。一人作業の周りから出てくる「ヘルプします」の聲、ひとりふたり…ひとつふたつと顔立ちの違う水餃子が出来上がる。熱湯に泳がせ、熱でぎゅっと締まり透きとおった姿を大皿に盛りつけ完成。残ったアンはスープの団子としてこころの芯から温めてくれる。本当にこの一品は実に多芸だと思う。飲めや喰いやの中、笑い語り、スーと闇の中。空白というより真空状態に近い。意識が戻ると自宅の布団の上。いつものように反省いや猛省をする。いかんなあ。最後に一句。

願ひごと 包んで畳む 水餃子      宗介

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