無垢な描線

畑から帰宅した。4歳の長男が夕飯もそっちのけでリビングの壁にものすごい勢いで絵 を描いている。

4歳の長男が夕飯もそっちのけでリビングの壁にものすごい勢いで絵
を描いている。

アクションペインティングとの出会いは20代の頃。先生も生徒と一緒にデッサンする画塾に通っていて、ぼくが教わったS先生の傍にはいつも何冊かの画集が置いてあった。その中の一冊に絵の具がしぶきのように飛び散った、鮮烈な絵画があった。こんなんだったら自分にも出来そうだと思ったのが第一印象、それがジャクソン・ポロックの絵画だった。その画集を時々丹念に見つめては、ろくに食事も摂らずに石膏デッサンに没入するS先生の描くデッサンは、描線が厳格で色相が幾十にも重なり沈鬱な印象を受けるものだった。

芸大で学ぶようになり、ポロックを美術史の変遷の中で普遍的に捉えられるようになった。そして、あの時、S先生はなぜデッサンの手本にいつもポロックの画集を真剣に眺めていたのかと気になるようになった。ポロックの人生や芸術に関する大学図書館の資料や映像を時間があったらよく目を通したが、結局、在学中は、答えを見つけることはできなかった。その後、ぼくは酒造りに携わり、今では常に土に触れる農業で飯を食っている。表現に対する感じ方は歳相応に変化するもので、ぼくは、当時のS先生の年齢に近づいた。近頃、ポロックの作品が一層身体に響くようになった。色彩とペインティングの躍動感、自由奔放で、それでいてなんらかの法則に従っているかのようでもあり、全体的には調和している。森羅万象を象徴的に表しているかのようで、いまのぼくには醪や健全な土壌の微生物の存在そのものに感じてしまう。葛藤や不安も一つの響きとして感じるようになったのは、表現の行き詰まりに苦悩した表現者の痕跡に、ぼく自身の生活の一部分を投影するようになったからだろう。

大原で土を耕して10年。この夏はほんとうに酷かった。最近、ぼくは畑の真ん中でぼんやり佇むことが多くなった。たとえば畑に鍬を入れようと思っても、手を入れたことによって生じる後々の影響なんかをいちいち考える。片っ端から虫に喰われ、姿を消してゆくカブや大根をなすすべもなく見つめる。時期的に難しいだけだ、もうじき虫の活動はおさまるとわかっていても、いっそのこと農薬使って楽になろうかなんて実際にはやりもしない考えが頭をめぐり、余計に身体が動かなくなる。葛藤やら苦しさやらがぼくの農業に目立つようになってきた。

虫に喰われた葉

さて。息子が壁に描き上げたのは家族の笑顔とたくさんの軽トラック! 息子はシンプルに描きたいものを描きたいから描いている。そこにはやがてやってくるであろう、人生や生活の葛藤や苦悩なんて微塵もない。眺めていると農業を始めた頃の、何もかも新鮮だった感覚が少しずつ蘇ってくる。

彼の人生の中で今だけかもしれない、最高に特別で純粋無垢な描線が、S先生とポロック、そしてぼくの人生を照らす。家の壁中に広がってゆく、息子の伸びやかで楽しい絵をしみじみと堪能している。

壁に描かれた絵
畑