日本で初めてパンの香りに出会った人の気持ちはどんなだったでしょう。ビックリしたのかな、ワクワクしたのかな。
昔ちょっとだけフランスに住んでいたことがあって、毎日のおいしいパンに慣れてくるころ日本に戻り、そんなパンがなかなか見つからなかったのです。私の美味しいパンとの出会いは、今は亡き寺町大丸堂さんの山下照司さんの作る天然酵母パンが最初だったかも知れない。国産小麦やライ麦、自家製の天然酵母で素材が吟味されたパン。悲しい時、嬉しい時、たくさんの朝のお供に大丸堂さんのパンがいつもありました。カリッと焼いてバターとオレンジマーマレード、オリーブオイルを付けて、塩をパラパラしたり。
もう20年も前から私は美術の展覧会を企画していて、作家の寿子さんが「送られてきたから」と展示初日オープニングにパンを両手に抱えてやってきて、それが月とピエロのパンとの出会いでした。私はクルミとドライフルーツの入ったずっしりと大きなお月様のようなパンの切り口にすっかり魅了されてしまいました。ライ麦の風味豊かなパン、ちょっとサワーな天然酵母の香りがしました。
それから月日は流れて、月とピエロはすっかり誰しもが知るパン屋さんになってしまって街中での催しで出店されても何時も売り切れ。これはもう、中能登町のパン工房に伺うしかない、と出かけました。
朝7時ごろに出発し金沢から車で《のと里山海道》を走ります。1時間も走らないうちに中能登町に。たどり着いたのは,農家のような大きなお家の一角。お庭の奥に、工房はありました。パンを売る場所とイートインのカウンター。朝の8時過ぎにはもうお客様が何組かいらして、人気店であることがわかります。
旦那様のよっちゃんは大阪のル・スクレクールで修業後、紆余曲折を経て地元に戻りご実家の納屋を改装して窯を入れました。月とピエロのFBを覗いたら、奥様ゆかりさんの書く文章に惹き込まれます。「決して平坦な道ではなかったけれど、全てが私たちの今を作り上げている。辛いこと苦しいことがあるから喜びや幸せもより強く感じる事が出来ると思う。光があれば闇もある。私たちのパンは私たちを投影する。共に歩んできた時間に刻まれた経験や思いがパンに現れるのは当たり前のような気がする」
パンに込められた思いを知りました。
ゆかりさんは白い服とざんぎりの前髪がとてもお似合いです。「毎日よっちゃんに支えられています。白い服は気持ちがシャキッと引き締まるきがします。前髪もおでこを出すと気持ちが上がります」
私ははじめてお会いするゆかりさんにとても惹かれて思わず話し込んでしまいました。素足で毎日土に触れることで大地と心が通い合うこと、植物と触れると心が落ち着く話をしました。素直で美しい心で生きていくことが難しく、「素」では傷ついてしまいそうなこの世界。嘘をつかずに生きる素晴らしさをどうやって表そうか、ゆかりさんが見せてくれているように思います。
パンを焼く窯場にはよっちゃんがいます。静かに丁寧に煎れてくださったコーヒーと、オーブンで温め直して出してくださったクロワッサンの極上のおいしさ。予約を入れなければ買えないというパンドミ、チーズパン、チョコレートが入ったスコーン。パンコンブレはライ麦のかりっとした焼肌です。
ゆかりさんが宝石を扱うようなうやうやしさで、パンを袋に入れてくれました。いろんな事情で別れたばかりの元夫にも持っていきます。そうです。そんな気持ちにさせられるのはこのパンの不思議な魔力のせいでしょうか。
外に出ると春の花々がそれはもう麗しく咲き誇りこの世の楽園のようでした。