高知県編 その五

「私はいったい何者か」旅をする電車の中、歩きながら、ちょっと路地に入ったとき、海辺に立つ時、考えてしまいます。
30代の頃。日々の暮らしが辛くて、苦しくて、どうにかならないものかと藁にもすがる気持ちで曹洞宗のお寺に坐禅に。
指導してくださる雲水さんは、黒い僧衣のためか顔が青白く見えました。華奢な体は高野文子の漫画の中の観音様にみえました。
坐り方を指導してくださりながら、淡々とこうおっしおっしゃるには「坐っていると様々な考えがあーでもないこーでもない、と浮かんでくるはずです。それらは脳みその中の《うみ》なのです。その考えにとらわれず空の雲のように流れるままにしてください」

雲水さんのおっしゃった《うみ》というのは《海》ではなく、《膿》だということは、後になって判明したのですが、坐禅というのは坐っている間海に漂うようにいればよいのだな、と思ったものでした。
高知の旅は現実がどこかへ吹っ飛ぶように、ほんわり、あーでもないこーでもない、が起こりました。
はりまや橋近くのホテルに宿泊。朝、フロントのソファーから古いビルの窓が見えています。この昭和の鉄筋の建物をリノベーションしたら、と考えだしたら止まらなくなります。1階はこだわりの花屋さんにして、2階はギャラリー。白磁の器や焼き締めの黒い壺、民芸調の皿なんかを並べてみたら。3階は子供達の好きな世界中の絵本をたくさん仕入れ読み聞かせをする。4階はAIR B&B、5階はオーガニック食堂なんかいいのでは?
そして、ランチに入ったお店の広さがこれくらいで、客席数はこれだけ、従業員が何人で料金がこれだと一日の売り上げはこれくらい。このお料理の手間と味、全部総合して店主の良心に驚かされたり。


 
高知の人のおもてなしの心はどのように培われたのか。都会からのUターン率はどれくらいで、Iターンの人はどれくらいかな、もし私が一人高知に移住した場合、何かできる仕事があるのかな。
誰も私のことを知らない人たちに出会いたい。自分の影が道に写る。太陽を背にした黒い影。どこから来て、どこに行く?
マッチ売りの少女がマッチを擦るような、それが私の旅。マッチの火はいずれ消え、幻も消え去る。私の身体の中の細胞、記憶もなくなる。はて私の帰る場所はどこ?今はあの場所へ。そしていつかはかの場所へ。風に吹かれ、海に漂うように、知らない遺伝子たちに出会うために、旅は続きます。