高知県編 その三

「馬には乗ってみ、人には添うてみ」という故事があります。つまり何事も経験してみなければわからない、という意味ですね。
りんごに触れずに重さや形や味がわからないように、実際手にしないと実像が掴めない。知識は不安を取り除くことはできますが、経験は人を思慮深くします。現実をどうやって「実感する」のか。本を手にとって読むのか、絵を描くのか、踊るのか、人と語らうのか、料理をするのか、また旅にでるのか。
たとえばある土地の固定したイメージを持っていても、実際行ってみるとそれとは異なっていることばかりです。訪ねてみて、歩いてみて、話してみて、自分が描くイメージなど、まったくもって当てにならないことに気づかされます。何をするにも「このちっぽけな自分からは何も生まれてはこない」と謙虚に、真実を見極めるには「自分の固定観念を外す」、しかなく、旅することの多い私は自分を一旦「ゴワサン」にして「ただの人」あるいは「オバチャン」としてふわりふわり、漂うようにいたいものです。
高知ではその「ふわりふわり」で、よい出会いと美味しい食べ物にたどり着くことができました。

草や草や

「草や」さんは美味しい地酒と、高知の食材をつかったお料理屋さんです。地元高知の旬の食材を仕入れ、鰹はもちろんのこと近海よりいろいろな魚が入荷されています。特にうるめのお刺身や、自家製のうるめのアンチョビが大人気だそう。日本酒がすすみそうですね。そのほか、土佐あかうし、窪川ポーク、はちきん地鶏など、どのお料理もバリエーション豊かにアレンジされています。時節がら、「カツオのたたき」には残念ながら出会えませんでしたが、美味しい御肴に囲まれて地酒がすすみ、私達は口福に満たされました。草やさんでは、夏は二階から花火を眺めることができるそうで、ビールなどいただきながら眺めるのはきっと最高ですね。

さてその草やさんをご紹介くださったのはデザイナーのタケムラナオヤさん、そして奥様は活版印刷の竹村活版室の竹村愛さん。次の日に事務所をお訪ねしました。

竹村活版室竹村活版室

活版印刷は、かつて日本の主流の印刷技術でしたが今では希少な技術として、おしゃれでこだわりのあるモノづくりの人達などにじんわりひろがっています。竹村活版室のウエブサイトには「活版印刷がどういうものなのか見てもらったり知ってもらったり触れたりできる場所や機会となればいいな、その思いで始めました。ぜひ一度、おたずねください。」とありました。一枚一枚手で刷られる貴重なお仕事の記録の中に京都の音楽家「mama!milk」のオリジナルグリーティングカードと、高知での演奏会のチケットを見つけて嬉しくなりました。あれは何年前でしょう、金沢で彼女たちのコンサートを企画したことがありましたっけ。懐かしい思い出が蘇りました。

こんなことで偶然に何かがフィードバックされるのも旅の醍醐味と言えるでしょう。もう半世紀も生きていれば思い出は蓄積されてすぐまた消えていく日常なのですが、脳みその中で眠っている記憶がふとした瞬間にスポットライトを浴びて、いきなりなのにあわてることもなく微笑んで私を緩やかに癒してくれます。少し物哀しい出来事でさえも、いつかはなつかしさに色を塗りかえ、「もう大丈夫」となっているのも、「時間」というお薬のなせる不思議なわざです。

また、新しい旅に出ようとあれこれ準備をはじめました。固定観念は暗い穴に埋めて、石を載せました。あとは、いつものようにふわりふわりと風のように、漂うように。