高知県編 その二

沢田マンションを訪ねました。沢田嘉農さんという方が素人でありながら一念発起し、奥様や家族と一緒に、設計から基礎工事、鉄筋組み、コンクリート打ち、配管、外装まで作り上げたなんともはや型破りな手作りマンション、通称「沢マン」。
以前から噂は聞いていたものの、実際に訪ねてみて、「は~こんな大きなもの、よく作ったな~」とただただ驚くばかり。
この不思議なマンションはいったいどんな歴史があるのか。調べるにつれて、何も無い状態から、彼らがいかに人生を切り開いて、沢田マンションまで行きついたかを知りました。

沢田嘉農さんは1927年(昭和2年)高知県幡多郡の農家に生まれました。小学校5年生の時、偶然「家の光」という雑誌に載っていた「アパート」についての記事をみて、それを作るのを夢見るようになりました。
17歳から18歳の時に兵役を経験したのち、製材所に勤めながら橋の下で寝泊まりしていた時、垢まみれの沢田さんに一部屋を貸してくれた人がました。この人情のあるアパートの家主と出会ったのがきっかけで、本格的にアパート作りをはじめることになるのです。
まず手始めに、当時の資産家から200坪の土地を借り、その土地の整地に取り掛かります。200坪のうち50坪を毎日毎日砂利を運び一人で整地。その後小学校の担任の先生の家の、高さ20メートル、直径1.2メートルの巨木の椎の木を一本譲り受け、それを製材すると、家一軒分の材木を取ることができました。そしてその50坪の土地にたった一人で家を建てました。その家を売って得たお金でまた土地を買い、さらにアパートを作りました。わらしべ長者のようにゼロからコツコツと自分の手だけで作っていったのです。

32歳の頃、当時13歳だった裕江さんを妻にし、未成年者誘拐の疑惑も起こったりしましたが、親に放っておかれた裕江さんが頑なに戻ることを拒んだことから、二人はその後夫婦となり、二人三脚でアパート経営の夢に向かって突き進みました。
1971年から今の場所に建設が始められました。「自分たちの一生の力を試すために、二人だけでやってみよう」と「100世帯あるマンション」を目指しました。
まずは大型ブルドーザーと、パワーシャベルを使って穴を掘り、基礎工事がはじまりました。1985年までに現在の骨格が竣工、その後は設計図もなしに、外装、内装を建て進めます。入居者を迎え、沢田さん一家の住まいはこのマンションの5階になりました。1990年代からは娘さんたちとお婿さんを迎え、現在まで小規模な改築が進められています。
今ではこのマンションに魅力を感じた人達によって、この手作りマンションが本やメディアで紹介され、今までにアーティストの展覧会やイベントなどが行われています。


 
「本は読まない。本は所詮人が考えたもの、わしは全部自分の頭で考える。小説も人が書いたものだから読まない」「教わって何かをするようでは目的は達成できん。自分で探求していく以外にない。そのためには学歴は全く関係がない」沢田嘉農さんの名言の数々です。
創造的であるためには、全部自分で考えて実行するのみ。その信念と情熱なしには、このマンションは建ちようがなかったのです。そして「達成したい目標に向かって真面目にコツコツ励む」、強く願い続けあきらめない、それを貫いた結果この沢田マンションが実現しました。
建物の前に立ち、人間の可能性について考えました。私はまだまだできることの数パーセントもしていない、と反省するしかありませんでした。

参考:古庄弘枝著「沢田マンション物語」