私が中嶋夏の舞踏を初めて観たのは、フランスのナンシーで開かれた演劇フェスティバルだった。
日本から演劇が来るという噂を聞きつけて、私は迷わずチケットを手に入れた。
「庭」とだけ書かれた小さな白い紙片には、顔のような絵が印刷されていた。
それを手に、私は一人で劇場に向かった。
その頃の私は、「暗黒舞踏(BUTOH)」という言葉さえ知らなかった。
金沢美術工芸大学の学部四年で、交換留学生としてナンシーに滞在していた。
日本ではテント芝居や展覧会には親しんでいたが、舞踏という表現にはまだ触れたことがなかった。
1984年6月のその日、ナンシーの劇場は満席だった。
幕が上がった瞬間のことを、私はいまでもおぼろげに覚えている。
音楽があったのか、なかったのか、それさえ定かではない。
あったとしても、おそらくかすかな音だったのだろう。
何よりも、私の視線はある一点に釘づけになっていたのだから。
袖の暗がりから、白い衣装をまとった存在が現れた。
人というより、むしろ彫刻のような、あるいはこの世のものではない影のような。
両手には大きな植物の束を抱えていた。
動きは遅く、前に進んでいるのか、後ずさりしているのか、判別がつかないほどだった。
顔は白く塗られていた。目を閉じ、口元はかたく結ばれている。
ときおり、その表情に苦悶のような陰が走った。
舞台の中央に辿り着いたその人が、その後どのように動いたのか。
記憶はあやふやだ。
だが私は、その時間のあいだ、確かに「今まで見たことのないもの」を見ていた。
圧倒され、夢中で、その終わりまで目を離すことができなかった。
終演後、観客は一斉に立ち上がり、拍手が鳴り止まなかった。
あの出会い以来、私は舞踏というものに強く惹かれていったように思う。
当時の私はまだ二十二歳。
何も知らない、ただの子どもだった。
美大の学生として、私がしていたことといえば、キャンバスの前に座り、絵の具を重ねることくらいだった。
限られた平面のなかで表現することと、肉体を用いた舞踏の在り方は、あまりにも違って見えた。
自分が立っている場所が、はじめから敗北を予感させるような場所に思えたのだ。
まだ何も始まっていないのに、どこかで負けてしまっている——そんな感覚が、胸の奥に残った。
自分が考えているようなことなど、世界ではもう誰かがとっくに考えつくしている。
美術を志す者には、常に新しさを求められるという重圧がある。
その重みを、若い私はまだ受け止めきれずにいた。
けれど、舞踏は違っていた。
少なくとも、当時の世界では、まだその価値が定まっていなかったように思う。
中嶋夏の舞台も、ヨーロッパの観客にとっては未知のものであり、驚きをもって迎えられていた。
舞踏は、前衛の中でもさらに先端に位置していた。
そしてそれは、若い私の目にも、明らかに視覚芸術としての高さを感じさせるものだった。

中嶋夏 金沢公園 《夢の夢 奥の奥 残りの火》2022年 photo 2枚共 : Nik van der Giesen
当時はまだインターネットもなく、フランスで舞踏について調べる手段はなかった。
それでも私は、興奮の余韻に身を任せたまま、毎日の課題に追われるように日々を過ごしていた。
拙いフランス語でレポートを書き、制作に向き合いながら、助成金だけを頼りに、わずかな仕送りで暮らす苦学生としての一年だった。
ナンシーはパリから東へおよそ390キロ、アルザス地方の西端に位置する街で、アール・ヌーヴォー発祥の地とも呼ばれている。
エミール・ガレを中心としたナンシー派の美術館が街の誇りだった。
今ではTGVでわずか一時間半の距離だと聞くが、当時の移動には、確か四時間ほどかかったと記憶している。
どうにかしてナンシーでの学生生活を終えた私は、片道切符を手にパリへ向かった。
知人の紹介で18区のアパルトマンの一室を借り、ようやく、新たな暮らしが始まった。
続く