フランス編 その二

右側がフランソワーズ、左は彼女の友人キャロル 1983年頃 フランス・ナンシーにて

パリでの話をする前に、留学するまでの話をしたいと思います。

そもそも私のフランスへの憧れは、ナンシー市からの留学生、フランソワーズとの出会いがあって芽生えたもの。ベトナム人の母とフランス人の父を持ち、鋳金についてて学んでいた彼女と何故か親しくなり、彼女のファッションセンスと制作に対する姿勢、自由な発想、何事にも興味を持つところ。 いろいろな意味で影響を受けました。

キャンバスに絵具を重ねるだけの 、教授の言う事に一喜一憂する私の大学の アカデミックな 授業とは全く違って、ナンシーの大学のカリキュラムに憧れを持つようになる。金沢美大の授業に疑問を感じていた私は、自分の作品に必要なら素材はなんでも選択できるということ、大学の教授との関係は日本のそれとは違って上下関係ではないこと、アーティストが社会的に認められた存在であること、フランスでは 女性の地位や 結婚観も全く違っているという事、彼女を通じて教わったように思います。

何よりも自分が自分の人生を生きていい、誰にも憚らずに作品を作っていい。彼女はそのことを服装や作品を通して体現していたし、いつも作るものに自信があった。自分の服やバッグも靴さえも自分で作っていました。

はじめてのヨーロッパ。パリの街を歩く 1980年頃 
はじめてのヨーロッパ。パリの街を歩く 1980年頃 

時は1980年。なんとしても留学したいと考えた私はまずフランス語を習う事に。同じく留学を目指していた 4年次にいた先輩K氏にフランス語の先生を紹介していただき、3年間学ぶ。そのくらいではフランス語が全くモノにならないことをあとで思い知る事になるのですが、、、。

金沢市とナンシー市の姉妹都市の交歓留学生制度は一年ごとにナンシー市、金沢市よりそれぞれ一名ずつ派遣されるというもので丁度4年生の時、試験を受けるチャンスが訪れる。

13人いた志願者の中から、一人合格が決まった奇跡。その時の喜びは今でも忘れられません。
その後、留学のための手続きや準備はどうしていたのかさっぱり思い出せない。大学の教授や先輩に教わりながら成績証明書をフランス語訳したり、ビザを申請するために神戸に行き発行の手続きをしたり飛行機のチケットの準備をしたり、といろいろあったと思うのだが何も覚えていないのです。

ぼんやりと金美の図書館でフランス語の辞書を片手に書類を作っていたことがもやもやと思い出せるだけ、、、。

あの時から40年も経ってしまったのでした。

フランスヴィシーで語学学校に通う
フランスヴィシーで語学学校に通う 1983年9月

出発の日、小松空港まで母と当時の母の恋人の金箔屋の社長が送りにきていました。母は何か言いたげだったが私と離れるのが辛かったのか最後まで無言でした。

私は金沢を離れることが心底嬉しかった。愛情に飢え、辛い、さみしいだけの、毎晩独りぼっちのおよそ家庭とは言えない暮しなら離れても構わなかった。私はこんな家から、母からおさらばしたかったのです。

これから一人で小松空港から東京へ、大韓航空機でアンカレッジで乗り換えパリへと向かうのだ。さようならカナザワ、さようなら、ニッポン。さようなら昨日までの私。

パリからは電車に乗り換え、ヴィシーという町へ移動。そこで一か月の間、フランス語を学ぶため語学学校へと一人向かう。さて、今から行くのはどんな町なのだろう。駅に着くとホームステイ先のマダム・ジスレーヌが私を迎えに来てくれていました。