タイ編 その八

旅も終盤に近付き、チェンマイの陽子さんが最後にとっておきのお店を紹介するから、と何かウキウキ顔。陽子さんのコンドミニアムから少し市街地に近いところに、あるこのお店。チェンマイの伝統的な織物の工房に案内されました。

ひろびろとした木造の建物そこかしこに、布、布、布。こちらの場所を運営しているのは、タイの美術大学で染織を教えておられた織物作家のTさん。なんと彼はこの場所で蚕を育て、糸をつむぐところからはじめ、糸を撚り、染め、織るという全工程をお一人でされているのです。

二階に案内されるとその広々とした空間に大きな四角いガラスケースのような箱がひときわ目を惹きます。

それは何と、全面が蚊帳のような布で仕切られた寝室でした。タイの気候と風土からこのような形のベッドが何処の家にもあったとか。

Tさんの工房ではタイの少数民族の織物を見せるコーナーが作られており、何か所謂観光地のショップで見る「小綺麗な」お土産物の織物などではない。チェンマイの土地に根付いた工法の建築物の中に「あるべくしてある」手作りの布。タイシルクは古の時代にタイの王妃が野生の蚕から絹糸を得ており始めたのが最初だとか。アメリカ人実業家ジム・トンプソン(Jim Thompson)は、タイシルクの復興と国際的な普及に大きく貢献した人物でタイの織物文化を世界に紹介したことで有名です。ただここではTさんは全部をひとりで、自分の手だけで作ってきたということ。デザインはシンプルで嫌味がなく知的で品があります。

Tさんによると日本の有名デザイナーがやってきて、注文を受けたこともあったと。ただゆっくりと自分のペースを維持したいTさんはそのすべてを断り、自分のやりたいときにやりたいように、制作をすすめることにしたのです。

店内に並ぶTさんの作品

ビールを飲んでいかないか、というTさんに促されるまま、二階の中央の部屋に案内された私たちは、タイビールを何本もあけてしまい、楽しくお喋りに花を咲かせてすっかりTさんとTさんのつくられた作品群に魅せられてしまったのでした。帰り際にビール代をお支払いしたいという私たちを頑なに断り、僕もたのしかったから、と。こんな出会いこそ本当のタイ旅行、とやっとくつろいだ気持ちになれた私はTさんの醸し出すあたたかさは彼の作るものと同じ、と知りました。

来年も来たい、そして蚕から糸をつむぎ、染め、織る工程をみてみたい、自分でもやってみたい、そんな希望が芽生え、帰国してからも何度かメールを試みましたが、返事が来ることは一度もありませんでした。

Tさんは今もあの場所で今日も新しい布を紡いでいる、そしてタイのタイ人のつくる美しいシルクを作り続けていると遠い日本で、信じています。