フグが亡くなった。最後の数日は動くこともままならず、水槽の隅で静かに横たわっていた。自然界に生きるものの習性だろうか、寿命が近いフグたちは、みな一様に人目につかない物陰で最期の時間を過ごしてきた。
死が刻一刻と近づいていくにつれ、フグの体色は黒くなっていく。最期を迎えるフグは、底に敷いた砂利に腹をつけ、水中を泳ぐ姿もだんだんと見なくなる。真っ直ぐに体を保つことも難しくなるのか、やがて左右どちらか一方に体が傾いたり、小さな水流に押されて、前のめりになってしまったり。眼光は失われ、見開いた黒い瞳にはもう何も写らないのだろう。胸びれが微かに動いているのを確認しては、その命の灯火がまだ消えていないことを知るばかり。
以前は産卵用の小さなケースに移し替えて、他のフグたちから隔離したこともあった。最近では弱ったフグを特別に看病をするわけでもなく、ただ静かに終わりの時を待っている。呼吸が荒くなる姿を見ては、苦しいのだろうか、弱々しくうずくまる姿を見ては、今日あたりが山場だろうかなどと一人想像してみる。
隔離することをやめたのは、最期のときを一匹寂しく過ごすよりも仲間のいる水槽で、仲間たちの動き、〝生〟を感じながら過ごす方がいくらか気が紛れるのではないだろうかという思いからだった。それがフグにとって多少の救いとなっているのか、はたまたやはり隔離した方がベストなのか、数度の別れを経験した今でも、分からない。生き物を飼うということは、こうした試行錯誤を繰り返し、よりよい共生の仕方を模索するということなのだと私は常々考えている。
弱っていた一匹が、完全に身を横たえ、胸びれの動きが止まったのを確認する。この一連の儀式は何度経験しても、慣れることはない。毎回胸がざわざわと音を立て、不安とも空しいともとれるようなどっちつかずの、どこか居心地の悪いような感情を我が身に引き起こす。辛い、哀しいなどといった感情とはまるで違う。ただ受け入れることしかできないこの感情を私はまだうまく表現できないでいる。ただこうして言葉にすることは簡単なようでいて、とても労力を要し、精神的にも疲弊してしまうことだけは確かなようだ。