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第4話 セツ先生の第一印象

星信郎(水彩画家)
1960年~2002年在籍

「なにっ、会津?!」と言ったその人は、スタスタとこっちに向かって歩いてきた。そして、ぼくの申込書を覗き込んで「田島か」と言った。この人は、なんで俺の町のことなんか知っているんだろう、変な人だなと思った。その人はつぎに「長谷川病院、知ってるか?」と言った。「ハイ」。(長谷川病院の長男がセツ先生の親友だったと、のちにわかる)つぎに「イタリヤ ××××」知ってるか」と言った。(イタリヤ×××× というのは、あの辺の悪ガキどもが言っていた、わらべうたです)。「ハイ」と言って笑ったら、その人も、笑って行ってしまった。なんて変な人だろう。かけているメガネのフレームも、下のほうだけ黒。その頃はあり得ないものだった。履いているのは、イタリアンカットの靴。当時まだ髪はフサフサだったから、帽子はかぶっていなかったね。

入学して、一間しかない木造の二階の一室が教室。ぼくは心配症だから床が抜け落ちるんじゃないかとしょっちゅう心配していましたよ。同じ頃に、金子功、花井幸子さんたちが、いた。ぼくなんか、初めはその人たちに近づけなかった。セツ先生は、まだファッションなどの自分の仕事が忙しかったから週に一回しかこないんですよ。それ以外は、他の先生に描かせられる。セツ先生の日は、モデルがきて、そのモデルの周りを回って、角度を決めて描く、という例のスタイル。

もう、それの繰り返し。ずーっと。よくも飽きない。もう、ずーっとですからね。それ以来いまも、ほとんど毎週、デッサン会に通って、描く。それでも、うまくいったなあ、というのは、ほとんどないね。後から見ると、これはこれでいいんだなあと思うこともあるけどね。でも、こんなに長く連れ添ったデッサンというのは、ぼくにとっては、人間に対するつきない興味と観察で、描くカラオケですね。

(つづく)

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  1. 大橋未生 より:

    一番乗りのコメントでお恥ずかしいですが、書いちゃいます!

    カフェ・オ・レ飲みながら読んでます。
    節先生のエピソードは、いつも面白くて、わくわくします。
    是非、星先生が先生になられた経緯も読みたいです。
    節先生以外の先生方の教室も、興味深いですね!確か、水彩を教えられていたのは節先生の先生に当たる方でしたよね…?
    オイワさんたちも、その先生に学ばれたのでしょうか。
    金子功さんの授業も憧れます。

    同世代から、下の世代に特に言えることですが、人の様子を観察出来る方がとても減ったように思います…。そんな皆も、セツ流のデッサンをしたら、きっと楽しくていいですね。

  2. 星信郎 より:

    大橋未生さん コメントありがとう!
    僕たち入学したころは水彩画の時間少なかった。月に一回ぐらいだったと思う。そして人物画は無くて静物画と風景画だけで、春日部たすく先生でした。セツ先生は昔若い時には春日部たすく先生の家に居候して文化学院に通ってたそうで、絶対信頼オマカセであったようです。

    後の、僕たち職員先生は何のことはないセツ先生の使いやすい、小間使いでした。だから僕はオイワのセンセイだ。

    近ごろ若い人たち、せっかくオシャレしているのにスマホばり見ていて、人間様ムシですね。

  3. クサナギ より:

    星先生、ご無沙汰しています。
    いつも楽しみに拝読しています。
    最近、高木町辺りに行く機会が多く、一度気になって
    以前幼稚園のあった永平寺別院長谷寺(ですよね?)に入ってみました。
    想像よりずっと大きくて立派なお寺で驚きました。
    ちなみに、教室のあった幼稚園はお寺のどの辺りにあったのでしょうか? 
    門をくぐって右側に、大きな観音様のお堂がありました。
    このあたりかなと思ったのですが。
    もし差し支えなければ教えて頂けたら幸いです。

  4. 星信郎 より:

    クサナギシンペイ君 コメントありがとう!
    そうです、そこです。昔はとっても質素で静寂、広い庭もありました。
    その庭の右側に木造二階建ての幼稚園があって、その二階がセツでした。
    いま現在は葬儀場になってますね、僕も長らく行ってなかったが、堀切ミロさんの告別式で、ビックリさま変わり、でした。
    そのころ、正しくは笄町と言ってましたよ、高樹町は路面電車の停車場名です。

  5. クサナギ より:

    星先生、ありがとうございます。
    やっぱりあのお寺だったのですね。
    また今度お伺いしてみます。 
    先生も佳いお年をお迎え下さい!

  6. 内川瞳 より:

    星先生。こんにちは。またコメントします。偶然にセツ先生と同じ故郷だったのが偶然では無かったのかもしれませんね。星先生の記憶力も凄いけど、いまだにデッサンを描き続ける事がデッサンの楽しみを知ってる証ですね。そんな私も見習ったわけじゃ無いけど、デッサンと絵画に執着するつもりないままに執着してることに気がついて、星先生の飽くなき世界と同じだなと思いました。
    分析するのは好きじゃないけど結果は嘘をつきませんね。年齢なんて人がいうほど感じて無いし、葛飾北斎が80歳過ぎて天井に絵を描いたのを知って私も天井に簡単な花を描きました。体力はないけど気力があるでしょ?って感じ。いつか個展でシャンソンも歌う歌個展をしたいと思ってます。それからまた同窓会もしましょうね〜

  7. 小林明子 より:

    同期で一番年上は私だったかも。一番若かったのは高卒すぐの大野君、ガロで歌手になった。こぼれそうな目のひとみちゃんに、手作りのバラの指輪をいただいたことがありました。数年前、我が家の近くの画廊で、偶然、峰岸さんのお弟子さんの展示会に出会ったり、星先生にお目にかかったり。懐かしいです。

  8. 小林明子 より:

    同期で一番年上は私だったかも。一番若かったのは高卒すぐの大野君、ガロで歌手になった。こぼれそうな目のひとみちゃんに、手作りのバラの指輪をいただいたことがありました。数年前、我が家の近くの画廊で、偶然、峰岸さんのお弟子さんの展示会に出会ったり、星先生にお目にかかったり。懐かしいです。

  9. 星信郎 より:

    小林明子さん メールありがとうございます。
    小林さんとは不思議に長いおつきあい、一度はとぎれても又お会いできて、いまは小田急線となりのとなりの駅だから、お〜〜〜い!って呼べば聞こえるかも知れないね。
    小林さんと小林クンと、カドヤさんとで、あと2人いましたね。大原漁港で遊んでから、もう何十年過ぎただろうか?、あの翌年からずうっとセツの写生地が大原漁港になってました。それが何と、いま現在も続いてますよ。セツ先生が亡くなっても、その後の生徒たちが自分たちで企画して続けています。
    実は僕も誘われているのだが、もうオトシで疲れそうで二の足踏んでます。それに大原も、昔とはすっかり変わってしまったらしい。

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