レコード・ジャングル 中村政利さん Part3

 「大学(東京外国語大学・ロシア語学科)入って東京行ったときに音楽に関する文化的ショックがあってね、大学入る前から付き合っていた妻との待ち合わせで新宿のレコード屋『ディスクユニオン』に行ったら300円からレコードが買えるのがショックでね、それまで新聞配達でこつこつお金貯めて一枚2500円で買ってた物が300円で買えるって。どういうことなんだこれ、って。レコードって定価が決まってて日本のカタログに載ってる物だけが流通してるんだって思ってたら、中古レコードって、輸入盤もあるし、値段が安いもんもあるし、見たことがない物も一杯あるし、それぞれに別の世界、音楽が詰まっているんだな、って思って本当にワクワクした。それと、東京の図書館がレコードを貸してくれる。大学入って住んだ学生寮の近くに小石川図書館があって、カードに聴きたいレコードの名前を書くと一回に五枚まで貸してくれる。まだ世の中に貸しレコード屋が出てくる四、五年前だね。文京区に他に図書館が五つあって全部レコード貸してくれる、それで文京区の全ての図書館を二年間くらいかけて興味のあるもの全部借りまくりましたね。三つの図書館ハシゴして十五枚借りたこともある、レコード入れる袋まで貸してくれて。あれで本当に視野が広がった。気に入ったもの一回で分からないものは家でカセットに入れて何回も聴く。大学二年くらいまでそればっかりやってたけど、だんだん物に対する欲求、本物を持っていたいという気持ちも強くなってきて、それで新聞社の夜勤番のバイト始めて、帰りに銀座の中古屋さん三軒くらい寄るのね。『ハンター』とか『モーニングサービス』とか。『ハンター』で一番安いときは1000円で四枚買えたね。図書館で間口が拡がって自分の好きなものの傾向がはっきり見えてきて、自分が一番好きなのはブルースなんだな、って分かった。兎に角東京にいたときは貪欲に買いまくりましたね、その頃は情報が余りない、今みたいにネットで検索ってものもないから、現物買って聴いてみるまで分かんない、しかもラジオではかかんない。自分はブラック・ミュージックが好きなんだ、というのが分かってね、兎に角顔が黒くて知らん人なら全部買ってましたね。アーチー・シェップ、ローランド・カーク、B・B・キング、アレサ・フランクリン、顔が黒いのは全部必ず面白いんじゃないか、という幻想に取り憑かれてましたね」

 時に思うことがある、世の三割の人がスマホやめたら世の中は変化するかな、と。今や誰も彼もスマホ携帯しているのが当たり前になっているが、それをあえて持ち歩かない人が少しずつ増えていけば世の中の雰囲気、人の表情も変わるのではないか。スマホをしない人がある一定数いるからこそ、スマホをする人は存在出来ている、という当然明白なことに世の中は気付かないといけない。世界中の人がスマホを弄ることで失われている無意識化での意識の働きの総体、そのとても大きな損失。それは人の観る夢質にどのような悪影響を及ぼしているのか。この薄く小さい物がもたらす過度の利便と視野狭窄と引き換えに、ぼくたちの意識の働きはその深いところから痩せ細り、糸の切れた凧のように無意識、共有意識の世界から切り離されて彷徨っているのではないか。二十四時間休みなく明るいコンビニのように「夜」のない状態で消耗していく脳。殆どの人が沈思黙考するときを持たなくなると、世の中はそれを下支えする大切な抗力を失い崩れだし、全ては盲目的に溶け流れ制御不能になる。静かに物思いに沈む人が世の中から消えたと思えるほどに少なくなれば、もうこの大切な「荷物」を次の時代へと運んでくれる人などいなくなるのだ。

 「最初はね、出版プロダクションに(就職して)入ったら、『福岡アトリエ』が出来たばっかりで、そこのサポートで福岡にやられて、そこは画廊や喫茶店を経営しながら雑誌の仕事をやろうとしてて、福岡市赤坂二丁目の『パークハイツ』というビルの一階。会社が喫茶店の中にあってね。ぼくフライパン持つの得意なんですよ、そこで習ったから。誰に習ったと思う、中村ちゃんそれじゃダメだよ、こうやるんだよ、って教えてくれたのが『一風堂』の社長の河原さん。(ぼくが働いていた)『ジーパム』っていう喫茶店が朝三時までやってて夜になるとスナックなのね、河原さんは自分の店終わった後に遊びに来るの。そのときに会社からタウン誌を一人で作れって言われて、営業も取材も写真撮りも、レイアウト以外は全て一人でやって『TENJIN』っていうタウン誌作らされていたの。そんときね、俺こんなことやりたかったのかな、こんなのって虚業なんじゃないかな、って、全然人の生活とも密着してないし、現実を投影した仕事でもないし、なんか嘘の世界を作ってる感じがして、虚しさで一杯になって天神の街をほっつき歩いてたら、街中である看板を見たんですよ。それがね、『ジューク』っていうレコード屋さんの手描きの立て看板で、そこに英語で『ホーム・オブ・ザ・ビート』、ビートの故郷、って書いてて。あ、あれに、ショック受けてね、すげーとこある、って思って三階上ってたら、松本康さんという背の高い店主さんが迎えてくれて、自分の好みに合った物だけを並べたい、というコンセプトのレコード屋やってて、東京ではそんな店は知ってたけど地方都市でこんなこと出来るんだな、というのが驚きでね。それで『ジューク』に入り浸るようになって、こんな店を生まれ故郷の金沢でも始めたいなぁ、と思うようになったのが切っ掛けですね。『ジューク』と『芽瑠璃堂』がぼくのお師匠さんですね、『芽瑠璃堂』は吉祥寺にあった鰻の寝床みたいな店で、大学三、四年のときは日曜は必ず自転車乗って住んでたところから『芽瑠璃堂』行って、ブラック・ミュージックのこと色んなこと教えて貰いました。『ジューク』知ってから金沢でレコード屋しなきゃ、という気持ちになったけど、軍資金がない。それでとりあえず国元に帰ることにして、新聞の求人欄で仕事探して、学研教室を作る仕事を一年半程やって、(‘83年)八月に退社して、その年の十二月にレコード屋を始めた。二十七才でしたね、その年の五月に結婚してるからその半年後位に始めた。最初は『芽瑠璃堂』さんにレコード分けて貰ったり、海外から送って貰ったりしたけど、手持ちのレコードがないから、最初の十日間は買い取りだけしたのね、こっそり夜中に街じゅうの電柱に、レコード買い取ります、ってチラシ貼って、違法なんだけど。カミさんが反原発運動してて、仲間がチラシ貼りで捕まったこともあって、怖いぞ怖いぞ、って言いながらそのカミさん見張りに立たせて俺が午前二時半とか三時にチラシ貼って歩いた。それで毎日買い取りがあって、何とかかっこはつきましたね。それでも足りないんで富山のレコード屋『ディスク・ビート』の佐伯さんから五百枚借りて。佐伯とは東京から戻って来て、金沢のレコード屋『VanVan』に行ってブルースのコーナー見てたら、お前ブルース好きなんか、って突然タメ口で声掛けてきた奴がいて、それが彼で。佐伯公一は、まぁ、ライバルでもあり、仲間でもあり、ぼくと同じ歳で誕生日も六日しか違わない。十二年位前に突然倒れて死んでね。佐伯との出会いもデカかったですね、彼のほうがぼくより一年前にレコード屋始めて。人との出会いって何かあるんでしょうね、意味が。佐伯と出会ったときに、三国志の関羽、張飛と劉備とが出会うとこみたいに思ってね。佐伯が顔が関羽なんだよね。
 

(続く)

 

レコード・ジャングル 中村政利さん