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断片日記 -セツとわたし(後篇)

武藤良子(イラストレーター)
1991年~1996年在籍

2010年10月16日

週に3日、午前、午後、夜間、と3クラスあるうちの、わたしは午後部に通った。服を着たままのモデルを描くコスチュームデッサン、裸体デッサン、そして水彩の時間が、主なセツの授業だった。教室の真ん中に、コスチュームか、裸体のモデル、その周りに輪を描くように生徒が並ぶ。右手に鉛筆、左手にドローイング帳を持ち、ただひたすらデッサンを描く。モデルたちはいずれも、節先生好みのくるぶしの尖った華奢な男女で、5分だか10分だかでポーズをかえ、生徒たちも新たな構図を求めてその周りを動く。節先生がふらりと入ってきて、生徒たちに混ざってデッサンを描きだす。もともと静かな教室に、さらに、ぴりっ、とした空気が流れて締まる。しょうもない絵を描く生徒に、オナニーしてんじゃないよ、と言っている節先生を見たことがある。ロビーで見る節先生はいつもにこやかで、教室で見る節先生はいつも怖かった。
 休憩時間が近づくと、珈琲のいい香りが、下のロビーから流れてくる。節先生か、星先生か、初川先生が、自ら珈琲をいれてくださる。1杯100円だったか200円だったか。ロビーや気持ちのいい緑の庭で、珈琲を飲む。ロビーには、下品な缶ジュースの持ち込みお断り、の張り紙があった。
 せっかくくじ引きで当っても、辞めていく生徒も多かった。課題があるわけじゃない、手取り足取り教えてくれるわけじゃない、ただひたすら絵を描くだけ。合わない人には合わない、合う人には最高の学校だった。本科は2年で卒業だが、その上に研究科もあった。月1万円だった学費が、研究科にいくとさらに安く、月5千円になった。結局わたしは、本科に2年、研究科に3年、20歳から25歳までの5年間、セツに通い絵を描き続けた。

6月には千葉の大原へ写生旅行に行った。お金のある人はホテルに、ないやつは旅館や民宿に、もっとないやつは野宿で、さらには日帰りでと、6月の大原に行けるやつらが気ままに集まり、海や空や町の絵を描いた。大原のあちこちに画板を広げたやつらがいて、節先生は、ホテルで借りた自転車でその間を走る。気に入った場所に自転車をとめ、カゴから画板と絵の具をおろし、絵を描く。そんな毎年だった。

通わなくなってしばらくして、節先生が亡くなった。あの大原で、自転車に乗っていて転び、頭をぶつけたのだ。葬式には行かなかった。天蓋つきのベッドで眠るおしゃれな節先生に葬式は似合わない、と思ったからだ。
 セツには行かなくなったが、絵は描き続けた。アルバイトをしながら、絵を描き、コンペに出し続けた。はじめて入ったコンペは、青山のHBギャラリーのファイルコンペで、1999年、28歳のときだった。年末に電話があり、そのときわたしは池袋のパルコにいて、電話を切ったあと、うれしくてそのままパルコの階段で泣いた。
 絵を描きたいんです、と言ったときから20年経った。今日、10月16日は、わたしの誕生日で、39歳で、今日から21年目に入る。

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  1. 星信郎 より:

    セツ先生の葬儀場は、あの仰々しい青山斎場でしたね、いかにもセツ先生らしくない所でしたから、生徒たちのためにと、前もって先にセツの校舎で行いました。セツ先生は、、お葬式だいきらいの人でしたから、伊丹十三の映画「お葬式」では100点をつけてましたよ。

    いつもセツ先生の入学式訓辞ては、絵の道は麻薬のようなもの、と言ってましたが、武藤さもそれにハマってしまったんだな、幸か不幸か?。

    • 武藤良子 より:

      星先生。
      校舎でお別れ会があったんですね。節先生が『装苑』に連載していた映画評も懐かしいです。
      「セツとわたし」は10年前に書いたブログが初出で、それから10年経ったいまも、わたしはまだ絵を描き続けています。飽きっぽいわたしが30年以上も続けていけるものに出会えたこと、たとえ麻薬だとしても、幸せしかありません。節先生、星先生たちが創ったセツ・モードセミナーという場所と時間のおかげです。ときどき大原駅から海まで続く、長い長い一本道を絵具と画板を引きずりながら歩いた日のことを思い出します。わたしはたぶん一生、あの道を歩き続けていくと思います。

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