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断片日記 -セツとわたし(前篇)

武藤良子(イラストレーター)
1991年~1996年在籍

2010年10月16日

18歳、高校三年の進路相談で、お前はどうしたいんだ、と担任に聞かれ、探検家になりたいです、と答えたが却下された。

中学高校6年間の女子校の授業の中で、一番好きなのは美術の時間だった。音楽、書道、美術と3教科から選べる中、6年間ずっと美術を選択していた。大きな窓と高い天井の美術室が好きだったし、男先生と女先生のふたり、どちらも好きだった。男先生は日本画を、女先生は油絵を描く人で、準備室をのぞくと、先生ふたりの描きかけの絵や描き終えた絵が、何枚も置かれていた。美術の課題は、中学高校らしい単純なものばかりだったが、図案を考える時間は楽しかった。美術の時間以外の、閑な教科、嫌いな教科の教科書やノートの余白は、思いつくままに鉛筆で書き込んだ、課題の図案で埋まっていた。出来上がった課題を提出する。ムトーいいね、これ。先生たちは、いつも同じ場所から、ものを創る人として対等に見て話してくれた。だから、わたしは、このふたりが好きで、美術が好きだった。

進路で悩んだ結果、やっぱり絵が描きたいんです、と相談しに行ったのは、担任ではなく、高3のときの美術の担当の男先生だった。お前はいまさらまったく、と言いながら、明日から毎日りんごと牛乳パックを描いてきなさい、と言ってくれた。丸いりんごを買い、冷蔵庫から四角い牛乳パックを出し、部屋で毎日鉛筆で描く。下手なデッサンを見せに、放課後、男先生のいる準備室へ通う。そうして冬を過ごし、春に、小さな短大の、生活芸術科にすべり込んだ。

短大の2年はあっという間で、生活芸術科の中のグラフィックを専攻したが、何かを学んだというより、表面を撫でた程度で、物足りなかった。初期のマッキントッシュのコンピューターが1台だけ、先生の机の上に、大事そうに置かれていた。授業では、烏口を使い、インクで文字を書くことを習った。パソコンはまだ、1人に1台の時代ではなかった。

短大を卒業しても就職する気はなかった。消化不良に終わった分、もっと絵が描きたい、と思いはより強くなった。文化服装、文化学園、桑沢、セツ。その頃よく、雑誌で取り上げられていた美術系の学校。文化服装は服飾だからのぞくとして、その中でセツ・モードセミナーを選んだのは、雑誌「オリーブ」のロケでよく使われていたかわいらしい校舎に憧れたからでもなく、雑誌「イラストレーション」で活躍するイラストレーターの人たちの出身校にセツの名前が多かったからでもなく、単に学費が安かったからだ。入学金と半年だか1年だかの学費を合わせて、18万くらいだったと思う。馬鹿みたいに高い美術系の学校の中で、馬鹿みたいに安いセツしか、わたしの稼いだアルバイト代で通える学校はなかった。長沢節が誰なのか、どういう人なのかも、知らなかった。

試験はくじ引きだった。試験日にセツに行くと、試験を受けにきた生徒の列があり、その先に、先生のひとりがダンボール箱を持って立っていた。箱に手を突っ込むと、折りたたんだ紙がいくつもあり、そのうちの当りのひとつをひいて、私はあっけなく合格した。試験がくじ引きなのは、今まで絵の勉強をしたことがない人にも平等に学ぶ機会を与えるため、と聞いた気がする。デッサンもまともに描けないわたしには都合のいい試験だったが、くじ運のない人には不幸な試験だった。

(後編につづく)

2 Comments | RSS

  1. 星信郎 より:

    くじ運の強い武藤良子さん こんにちは。お久しぶりです。
    武藤さんがHBギャラリーコンペで受賞個展をした時にお会いして、あれから何年すぎただろうか。あの時には金属製の静物を黒く鋭く描いてありましたが、このたびは、ややピンク色のセツ先生ですね、美しいです。
    次回も楽しみです。ホシ

    • 武藤良子 より:

      星先生、お久しぶりです。
      HBでの個展に来ていただいたのは30年前くらいでしょうか。
      その後、10年前くらいに要町のマルプギャラリーでやった個展にも来てくださいました。
      青と黒で描いた橋の風景画を星先生は気に入ってくださり、懐かしい、A、ということばをそのときいただきました。
      ピンク色で描いた節先生を美しいと言っていただき、ありがとうございます。
      こうして画面越しですが星先生にまた絵を見ていただくことができてうれしいです。
      これからもしぶとく絵を描き続けてまいります!

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