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セツという場所

丸山伊太朗(tottoriカルマ店主)
1999年~2009年在籍

第3話 セツモードセミナーという「場所」

セツモードセミナーにモデルとして通うことになり、セツにいる間はモデルの休憩時間、そしてモデルとしてポーズ中にも、じっくり「セツの中身」を観察していた。
 とにかく何よりの疑問だったのだ。通う学生さんに、人に言わずにいられないほど「楽しいよ!」「いいとこなんだよ!」って言わせる場所を「その場所たらしめている要因」は何なのか?
 ここの雰囲気・学風を構成している一番重要な要素があるとしたら、それは何か?

例えばある日のロビー風景(休憩時間中)
 せっせと掃除をする人、カウンターの中でゆっくりとコーヒーを入れる先生、ぽつんと座って自分のデッサンにじーっと見入って時々何か描き足す人、みんなと離れて二人でひそひそと話し込む人達、グループで賑やかに談笑する人達、中庭でぼんやり街を眺めながら一人煙草を吸う人、すみっこでパーカー被ってウトウトする人…

本当に思い思い、みんながのびのびと好きに過ごしているように見えた。「強制」や「圧力」なんて気配も見えなかった。なんだか息がしやすい…。「学校=強制して何かさせる場所」じゃないのか?
 そして、それまで自分の頭の中では「絵なんて描けるのは特別な才能のある人間だけだ」とどこかで思っていたのだけれども、必ずしもそうではないのではないか…と思うようになった。

セツモードセミナーに居る人達は何か、ひっそりとでも熱心に、いつも絵を描いているか、絵について話したり聞いたりしていた。そしてその表現は控えめで、どうだどうだー!って表に出す人もあまりいなかった。(たまにそんな人もいたけど)

「描きたいもの、見たい光景がある。そしてそれはまだこの世の中に存在していない。だから描いて世界に出現させる必要があるのだ」そんな風に思って、到達地点が分からなくても探り探り、一心に描いている人が多い。そんな感じを受けた。
 デッサン中も皆一人で黙々と描いて、でも苦悩しながら描いている感じ。
 苦悩しつつも、ひたむきで、細やかにデッサンしている。苦悩しつつ静かに情熱的に、でも気持ちの底の方では確かに楽しんで描いている。そんなに密度高く絵についてずーっとやっていれば、それは…「描けるようになっていく」のではないか。

そして、ここにいる人達それぞれみんなが(なんと先生までもが残らず)同じ物に興味があり、同じ方向を向いて一緒に(立場問わず一緒に!)勉強している、そして「ここ」ができているのか…と実感するようになった。
 提案や、助言はあっても強制や圧迫は無い。(課題はあるけどね)だから風通しが、居心地がいいのか。

セツ先生が何かを一方的に教える、というのではなかったように思う。(あったとしても「悩める人に方向を示す」くらい?)
 そしてセツ先生がそこに「居る」事によってゆるやかな渦が生まれる。(どういう物がその渦を作るのか?覚えている人は多いと思う、カウンターに貼ってあった「下品な缶ジュースはセツに持ち込まないでください」の張り紙とか、だろうか)

蓄えた知識、絵が映えるノウハウを教えるのではなく、自分で積んでいく経験を、見方を伝える事を、何よりなんでも試してみる事などをとても大事にしている。それも先生→生徒への一方向だけではなく、双方向にだ!
 私は「場」の作り方、広い意味での「教育と世界の関わり方」が一番気になっていたので、「何とここは…こんなとこがあるんだな…!なにより、なんて気持ちの良い広がりのある空気だろう」と思ってしまったのだった。(そんな事を一番気にするのも私くらいだったろう、みんな絵を描きに来ていたのだから。たぶんお店を経営していたせいでそういう事がすごく気になっていたのだ。)

セツを知るまでは、絵を描く人達っていうのはゴリゴリと「私の感覚、私の物の見方が一番!これを見て!!」みたいな感じに自分!自分!と押しつけて来て、まぁ自分に無いそんな「強い人」には、ほのかに憧れると同時に「わかんないやつは仲間入れてやんない!」みたいに言われそうな疎外感も強く感じていた。

でもセツと、セツに通う人は全然違った。というかもう、そんな時代じゃなくなったのかな?いや、ぜーんぶ時代のせいかなって思ってしまうくらいナチュラルに奇跡的に出来上がった、「いい場所」だったのだろうか。
 ともあれ、当時は「いい場所だ~!!!みーつけた~!」とほくほく喜んでいた。今だって、そんな場所は他に思い当たらない。

(つづく)

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