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水月

クサナギシンペイ(画家)
1998年~2003年在籍

 5年程年前に、高知県の須崎市という町に滞在する機会があった。町に数週間滞在して作品を制作し、展覧会を開くのが主な目的であったが、到着して数日、展示の構想を練りながら町をつらつらと歩くうちになぜかやけに千葉の大原のことが思い出されて、これはなんだと訝るうちに、はたと、ここもまた漁港である、という事実に思い至ったのだった。場所や国が違っても、漁港には漁港に通底するある種の匂いのようなものがある。そうして改めて町に目を向けてみると、漁船や網や赤いブイ、セツに居た頃に親しんだたくさんのモチーフが、懐かしさを伴った鮮やかさで目に飛び込んできた。
 残念ながらその年は既にやることが決まっていたのだが、翌年再び招聘という展開になって真っ先に思ったのは、もう一度あの頃のように写生をしてみたい、という事だった。
 そうして翌年、約二週間の滞在期間中、一日一枚は写生するぞと意気込んで乗り込んだものの、いざ描き始めて見ると驚くほどうまく描けなかった。セツを離れて20年、あれから毎日のように絵を描いてきたのだから、少しは上手くなっているだろう、という甘い期待は、果たして一瞬にして砕かれた。寧ろあの頃の方が自由に描けていたのではないか。どうやって描いてたんだっけ? そんなことを考えながら仕上げた最初の絵は、どこか固くちぐはぐで、目を背けたくなるほど哀れな出来映えだった。
 その理由は明白だった。描いている間中、きちんと角が出ているか、パースが狂っていないか、そんなことばかりが気になった。そうしてちまちまと修正と補正を繰り返すうちに、絵が固く強張った。見栄えを良くしたい。良い絵に整えたい。そんな卑しさが絵に表れていた。それは十年ほど商業画家として絵を描くうちにいつの間にか自分の身に染みついてしまった、哀しい性のようなものだったのかもしれない。でもそれは、あの頃の先生に見た「自由さ」とは対極に位置するものではなかったか。絵を描きながらふと頭を通り過ぎたその考えは、次第に自分の頭の中で大きくなって、やがて僕を押し潰した。それはとても鮮烈で、残酷な発見だった。20年描いてきてこれかと思うと心底うんざりしたが、それからはその痼りを少しずつ解すように、リハビリのような気持ちで写生を続けた。取り繕わない。直さない。よく見せない。念仏のように唱えながら描くうちに、やがて少しずつ感覚を取り戻したのか筆が動くようになり、やっと自分でなんとか及第点、と思える絵が描けた頃には、もう滞在も終わりだった。それから程なくして東京に戻った僕は、細々ながらも平行して続けていた装画の仕事を全て辞めた。
 一緒に掲載したのは、その時の絵だ。僕が入学して1年程で先生は他界してしまったので、残念ながら人に語れるような先生との直接的なエピソードはほとんどない。在学中に先生からAをもらったこともない。学校には自分などよりもずっと良い絵を描く人たちが腐るほどいた。それでもなぜいまだにこうして絵を描いているのだろう、とはたまに考える。描いても描いても全くうまく描けない自分に心底辟易しながらも、それでもまだ諦めずに筆を執るのは、あの頃の先生の背中がまだ自分の中にも生きているからだと、せめて思いたい。

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  1. 星信郎 より:

    クサナギ君  こんにちは。
    6月になるとセツでは恒例の写生会、千葉県の大原漁港でしたね。あのあたり一帯に散らばって、それは梅雨の走りでもあるから、雨が降ったり風にとばされたりの悪戦苦闘でした。そうまでしての写生の心が今も変わらないクサナギ絵画、やっぱり素晴らしいです。
    セツではAをとれなかったというクサナギ君、それを聞いては安心した人は沢山いると思うが? しかし僕の認識ではクサナギ君が意外にも少女を描いた構図、忘れもしないあれはカンペキAだった。
    昨年は、セツ先生の命日に音楽会とデッサン会でお会いできましたが、今年はコロナ禍で集合できませんでしたね、来年はどうでしょうか、大原漁港の写生会にしませんか?。ホシ

  2. クサナギ より:

    星先生 こんにちは。
    コメントありがとうございます。今年はミュージック・セミナーを開催出来ず、残念でした。
    大原の写生会も実現できたらきっと楽しいでしょうね。
    このコロナ騒動がなるべく早く収まって、また皆で集まれる日が早く来ますように。
    なかなか騒がしい毎日が続きますが、どうか先生も健やかにお過ごしください。
    またお会いできるのを楽しみにしています。

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