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僕が居てもいい場所

Bow。池田和弘(絵描き)
1963年~1965年在籍

僕が、長沢先生を初めて見たのは、高校2年生。昭和38年の夏の終わり頃だった。その頃、僕はどこにも居場所がなかった。入学した工業高校は予想とまったく違い、やめたくてやめたくて、親に言っても頭ごなしに叱られるだけ。だから、親とは口もきかず、もちろん、先生なんてなにもわかってくれない。学校へ行かず、仲間と喫茶店にたむろする日々。そんなある日、駅で1枚のポスターを見た。
   「セツ・モードセミナー生徒募集」。

そこには、あのかっこいい人物の絵が描いてあった。「えっ、これつていつも週刊誌で見ている、あの長沢節っていう人の絵じゃん」。『週刊女性』の小説「おしゃべりな真珠」の挿絵。憧れて真似して描いたりしていた。こんなかっこいい絵を描けたらいいなあ。そうだ。この教室、見に行ってみよう。その日も学校をサボって、 都電に乗る。住所の場所は、お寺の境内。その隅のアパートみたいな木造二階建ての右側の階段横に「セツ・モードセミナー」という看板があった。僕は、その狭い急な階段を恐る恐る登った。二階の狭い待合室のようなところの奥が事務所。そこから美しい女性が僕に気づいて「なに?」とやさしく声をかけてきた。「あの、ちょっと見にきました」。「あらそう、いいわよ」
   僕は壁沿いのベンチに腰かけた。事務所脇の広い教室で15人くらいの人がシンとした中、真ん中に立つモデルを囲んで一心に絵を描いている。やがて、「休憩」と声がかかった。お喋りをはじめた生徒たちの間から、でっかいシャツにピチピチズボンにブーツの人が出てきた。「センセ、あの子、教室見にきたんですって」「あっ、そ」。大きなメガネの奥から鋭い眼でジロリと僕を見た。この人が、あの長沢節なのか。それが、先生との初めての出会いだった。僕は身動きもできずじっと座っていると、やがて「アップチュー」と長沢先生が教室に向かって叫んだ。モデルはポーズをとり、皆、囲んで絵を描きはじめた。

へえー、これが絵の学校というものか。と、見ていると、誰かが木の階段をドカドカと駆け上がってくる。僕の前を通り過ぎた。マドラスチェックのシャツ、コットンパンツに雪駄履き、黒いアタッシュケースという変な格好。すると、さっきの美しいひとが「ホヅミ先生」と、呼んだ。えつ、これが、あの穂積和夫。『メンズクラブ』なんかに男のファッションイラストを描いている、あの……。アイビーなのに、雪駄って……。僕はその日、憧れの人二人にいっぺんに会ってしまったのだ。あのピチピチズボンのフランス人みたいな長沢節。アイビーの先生、穂積和夫。両方いる。もうここに、入るしかないな。あんな高校、やめちまおう。その日は、僕の人生を決めた運命の日にになった。
   高校2年の期末テストをすべて白紙で出して、無事(?)落第。親と大ゲンカ。でも、作戦通り、嫌な工業高校をやめて、セツ・モードセミナーに入学した。その頃のセツ・モードセミナーの生徒は、みんな僕より年上で20代。社会人や主婦の習い事という感じだつた。17歳と、一人若かった僕を、あの事務所の美しいひとは、名前を覚えず、「あの、ボクちゃん」と呼んだ。年上の同級生も先生たちも、皆、とてもやさしくて、ああ、僕はここにいてもいいんだなあと、やっと、僕の居場所を見つけたと思った。

(つづく)

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  1. 星信郎 より:

    池田くん だれから見ても、ぼくちゃんだった。 青山こっとう通りを路面電車で高樹町下車、お寺の敷地に有ったセツモードセミナーはまさに寺子屋だったね、 デッサンの始まるかけ声は「アップチュウ」これは何語かなと思った、のちにセツ先生に質問してみたら、それはね友人のあかちやんが盛んにアップチュウ、アップチュウって叫ぶんだよ、いいだろう、これ。

    セツ先生のデッサンする姿勢はかっこよかった、池田くん上手く描いてるね、迫ってくるよ。非の打ちどころない美人は竹腰ママ、あれでスッピンでしたよ、社交性あってクルマ運転上手でした。

    • Bow。です。 より:

      星先生に絵を褒められるなんて照れくさいです。アップチュウの謎が五十数年経って解けてスッキリしました。

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