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セツ以後の僕

大野真澄(歌手)
1968年~年在籍

初めて見たセツの印象は、そこだけパリの雰囲気のように見えた。生徒も先生も、自由を尊重する精神が徹底していた。すべては自分の中にあり、自分から生まれる。好きなように描けばいいし、描かなくてもいい。自由に語ればいいし、生きることを楽しめばいい。無秩序な雰囲気ながらも、和が存在している。ここは、自由と勝手をはき違えることのない、大人の空間でした。

授業は、実技がメインで、セツ先生とひたすらデッサン、クロッキー、水彩…… そして、その合間にこういう話。
  「男が、バカの一つ覚えみたいに、強そうな恰好をしていたら、とんだお笑い草か、しらけちゃうかだよね。じゃあ、どうすればいいか? その見本が女なのよ。男社会の歴史の中で、女こそが弱者の美学を確立し、真の生き方の賢さを示して来たわけ。やさしさは、かならず、強さを打ち負かすのよ」。ここが、学校なのか。そのうち、入学した生徒の半数近くが消えていった。上京したての18歳の僕は「男と女の垣根なんか取っ払いなさい」と説かれて戸惑いつつも、偏見などなく、説得力あふれる言葉と表情にすっかり魅了され、オシャレでステキなセツの世界に心酔したのです。

19歳になったある日。セツの友人、いまは亡きペーター佐藤が、新しい劇団のポスターを書いたというので見に行きました。キッド兄弟商会の『交響曲第八番は未完成だった』という、東由多加さんがつくった劇団の上演でした。終演後、東さんに会うと「君はビートルズの歌を全曲歌えるんだって? 一緒に芝居をやらないか」と誘われ、舞台に立つことになりました。『東京キッド』『ヘアー』……、そしてその縁で、やがて「GARO(ガロ)」の誕生へとすすみます。GAROは、マーク、トミーと、僕ボーカルの3人で結成。僕のボーカルというニックネームは、セツにいたとき、友人から「君は高校時代、ビートルズバンドで歌ってたんだって。じゃあ、ボーカルだ」と簡単に付けられてしまったものです。

そして、1972年6月。僕らの最初のヒット曲『学生街の喫茶店』が生まれるのです。…… 君とよく この店へ来たものさ…… 上京して4年。さまざまな友人と出逢い、語り、歌いました。その中でも、とくに強烈なインパクトを与えてくれた学校。
  そのセツには、お世話なりました。

1件のコメント | RSS

  1. 星信郎 より:

    そうでした、僕たちセツでは大野君をボーカルと呼んでたね、あるとき大野君のパーティがあってセツ先生と僕とで参上し、そこは芸能人たくさん来ていてびっくりだった、研ナオコも堺正章もカマヤスヒロシも、大野君をボーカル ボーカルと呼んでいましたね。

    ボーカル大野君はもうすっかり忘れていると思うが、僕にとってはちょっと上等なサージ織りの黒いジャケット、大野君のも黒いジャケットでサイズがほぼ同じで、互いに「それいいね」とばかりに、暫く交換着用することにあいなった、そこまではうっすら記憶にあるのだが、その後のことがすっかりトンデしまってる。 あのころは、お互いにカッコよかったね〜黒いジャケット。

    ボーカルの友人、田中スナオ君は2013年パリで亡くなってますね、なんとも寂しいことです。
    ある晩、僕のアパートのドアをトントンたたく者あり、誰かと思ったらスナオであった。スナオは野球帽を深々と被りスニーカー履いてるだけで、あとスッポンポンの丸裸、前だけ両手で押さえて足踏みしてる、何かと思いばスナオは「僕いまこのへんをストリーキングしてます!」であった。

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