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続々・裸体モデル誕生

渡部倫枝③(イラストレーター)
1989年~1991年在籍

当時、映画館に古着屋にジャズ屋に器械体操のインストラクター、ゴールデン街のカウンターに、雑誌のカット描きなんかのアルバイトを週7日いくつも掛け持ちしていて、典型的なフリーター人生。20代の独身女子が食べていくには充分だったので、お金のために脱いだ(り着たりした)ことは一度もなく、そこは好きにやっていた、というのが本音です。でも、セツ先生からの評価には違いないので、とても嬉しかったです。何しろ、授業でタブローを評価されたことはほとんど無かったのです…とほほ(T_T)。

それから長い間には、セツ先生のお仕事の雑誌取材のときにモデルとして何回も呼んでいただいたり、会津や静岡の出張旅行に連れて行っていただいたり、いろんな経験をさせていただきました。先生は偉そうに教えるようなことは何一つなさらない先生でしたが、学ぶことの多い日々でした。ところで、セツ・モードセミナーには素晴らしいモデルたちが何十名と常に在籍していて、セツ先生のお気に入りモデルは、たくさん居ました。毎年のオリジナルカレンダーに掲載されるデッサンや、新聞の連載、書籍の挿絵に使われるモデルたちはそんなお気に入りの人たちばかりでしたから、いかに多かったかわかると思います。

大勢の生徒たちにもお気に入りのモデルというのがあり、私自身にも描き手としてテンションの上がるモデルさんと、そうでもない人がいたものです(笑)。そのうち、「私、オスカルさんの出る日をセツ事務所で調べて必ず描きに来てるんです!」という女子が現れ、私なぞにも「お気に入り」してくれる生徒がいるんだなあと感慨深くなりました(笑)。そのころから、セツ先生だけでなく、生徒のみんなに喜んでもらうには?とさらにポーズや衣装を考えるようになったと思います。本当はいいことばかりではありません。
 当時、明かしていませんでしたが、最初の妊娠中で、身体も脚も浮腫んでいるのに仕事を請けてしまったり、お腹が目立ち始めたのに脱いでしまったりと、クオリティもコンディションも最悪の状態だったこともありました。クラブで一晩中踊り明かして、寝ないまま午前部のモデルを務めたり(笑)、プロとして、してはいけないことだらけだったようにも思います。

そして、「その日」は突然やってきました。
 ゴールデン街のカウンターで接客中、店の電話が鳴りました。モデル仲間のムーからでした。「のりさん、聞いてますか?大原でセツ先生が倒れて…」真っ白になりました。お別れの日が、こんなに突然、本当にいきなりやってくるとは思いませんでした。あまりに事が大きすぎて受け止めることができませんでした。偉大な師であり、父のような存在だった先生が去った。涙もでませんでした。
セツに電話もせず、学校に近寄ることも避けました。この先の話は、過去に他のSNSに詳しく書いたことがあるので、はしょります。簡単に言うと、私が、やっと学舎を訪れる勇気が持てたのは、2004年の春のことで、またモデルとして母校に復帰することがその日に決まりました。

あるとき、モデルの大先輩が私に言いました。「僕たちはね、長沢先生のモデルだよ。あの長沢節のモデルだったんだ。泣いたりしてはいけない。」それでも、それでも私は、長沢節のモデルでしたが、同時にセツのモデルでもあります。だから、セツのアトリエに立ちました。そのことに、わずかでも意味があるならば、と思い…。まあ、天国のセツ先生がいまごろどう思っていらっしゃるか、わかりませんけれども(笑)。

4月8日。セツ・モードセミナー最後のデッサン授業は、コスチュームモデルで参加しました。今日の私の衣裳は、入学してから28年間の思い出の衣裳をそろえてみました。ファッション科で4年間お世話になったN先生が、学生たちのラフォーレ六本木でのショウの成功のご褒美にと、先生秘蔵のデッドストック布(60年代のもの)を仕立ててくださったブラウス。 …… 「オマエ、カッコイイ !」とセツ先生がよくほめてくださった黒革のテンガロンハット。…… そして、セツの初めてのHPの表紙として14年ネットでおなじみとなった「生ま足がいい」で着た、青いシルクのキモノスリーブ・カッシュコール(セツ先生の発音)…… などなど。もちろん、これは最後に絵と同じポーズをとりました。

27年ぶんのモデルの思い出が頭をよぎりました。ツライことばかり思い出しました。椅子の上でブリッジをしたとか(笑)。このアトリエで一番唱えた呪文は「早く、早く、早く鳴れ!タイムスイッチ!!!!」でした。12ポーズ終えると、セツ・アトリエでは初めての拍手でした。泣きませんよ、泣くかいな。本当に悲しいときは、簡単に水分は出てこないです。偉大な師匠の愛用したワゴンを見る。ワゴンの天板を見る。絵の具の飛び散った跡。誰も師匠以外、触らなかった聖なる画材。セツ先生は、デッサンの着彩はいつも、2~3色に抑えていましたが、飛び散った色はもっとカラフル。そうか。そうだったんだな。ああ、この木の椅子も近所で私が買ってきて寄付したやつだ。風呂椅子なんか絶対に使うもんか!って。嫌でさ(笑)。今見ると、この隣のカラフルな風呂椅子、絵の具だらけで、可愛く見えるなあ。…… やばい。目に水分が。急いでアトリエから出る。私を描いてくださった学生や先生たち。お世話になりました。また、どこかでお目にかかれることを。

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  1. 匿名 より:

    いいですね。どんな想いや出来事があったのか、行間に感じられます。門外漢の不失礼な意見ですが、お許しください。

    • 渡部倫枝(NorieWフレアバタフライ) より:

      コメントありがとうございます。
      拙文お読み下さり、感じて頂けたことがあったとのこと、嬉しく思います。恩師や母校に対する想いは、学生たちそれぞれで、心に持ったまま日々を送っていると思います。私もその一人に過ぎません(^^)

  2. 星信郎 より:

    セツ先生の人物画は時代の証明でもあったと思う、そこで渡部さんには沢山の現代を学びました、まさに、このモデルあってこの絵ありでした。その間のモデルのご苦労話おもしろく読ませてもらいました。
    そしてつくづくと時の流れと、人との出会いを深く感じます。 渡部さんありがとう‼︎

    • 渡部倫枝(Norie.Wフレアバタフライ) より:

      星先生!この度もコメントありがとうございます(^O^)
      なるほど、セツ先生の人物画はほとんどがアトリエでのリアルを切り取ったものであり、まさに時代とともに在ったわけですね。
      モデルをさせていただきながら、沢山のことを学びました。
      セツ先生を囲む先生方から教えられることも日常でした。
      振り返るとあっという間の27年間でした。この学校で出会えたことは人生の宝です。
      こちらこそ、最終話までお読み頂き、ありがとうございました(^ ^)

      星先生と、またどこかで画板を並べたいと思っています!そのときに、また(^-^)

  3. 佐藤由利子 より:

    渡部さん、昨日は弥生美術館で貴重なお話とモデルをありがとう。
    渡部さんならではの裏話、笑いと涙でした。昨日はぜったい行かれない
    とあきらめていたのですが、奇跡のように参加でき、精神がリフレッシュ
    できました。予想どうりの表現力豊かな方で、身体のラインの美しさは
    もちろん、内面からでる活気も描きたいモデルとしてセツ先生のおめがね
    にかなったのだと納得しました。
    在学中は、私は昼のクラスだったのでお会いできなかったのでしょうか?
    また続編期待してます。

    • 渡部倫枝(Norie.Wフレアバタフライ) より:

      佐藤さま
      コメントありがとうございます( ^ω^ )
      また、先月末の弥生美術館のトークイベントに足をお運び頂けたとのこと、嬉しいです。ありがとうございました。
      ほんの20分間でしたので、セツ先生と過ごせた10年間のあれこれを全てご披露することは到底難しく、、、それでも、先生の実像を多面的にお見せするために、いくつかのエピソードに絞ってお話させて頂きました。反骨の人として生き抜いたお姿、おちゃめな一面、それから、抑えた情動のシックな表し方、などなど。。
      セツのアトリエでは、お目にかかれなかったのかもしれない?のですね。

      それでも、この生誕100年の節目に、たくさんの学生仲間や先輩や、関係者、いろんな方々とのご縁が頂けたこと、この連載コラムの企画にとても感謝しています(^^)
      佐藤さま、最後までお読みくださり、ありがとうございました!

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