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「もっとガツガツ食べな」

Bow。池田和弘(絵描き)
1963年~1965年在籍

その頃、僕はビートルズやローリング・ストーンズ、デビッド・ボウイとかのロックファッションにあこがれていた。でも、そんな花柄のシャツやパンタロンなんて、どこにも売っていない。じゃあ、とセツ・モードセミナーの生徒で付き合っていた彼女と自分たちで作っちゃおう、となった。その時、あのモノ・セックスファッションショウでの経験がすごく役立った。 花柄のシャツ、ベルベットのパンタロン、インドのキラキラ生地でベストを作り、彼女と着ていると「作って欲しい」と、あちこちから頼まれるようになった。やがて、グループサウンズのTsのステージ衣装もやることになり、渋谷の西武デパートからもコーナーを作るから服を納めるように依頼され、洋服の仕事はどんどん広がっていった。「コパン」のおかげで絵の仕事も順調になり、峰岸、宮本、柳生弦ちゃんも、皆、活躍していて「コパン」も、そろそろいいね、どなっていた。ぼくはまだ20代前半だった。

そんなふうに激しく仕事をするうちグループサウンズ・ブームも下火に。Tsも、解散する。僕は服作りの彼女と別れ、違う女性と結婚。もう、服作りはやめて絵の仕事だけになっていた。でも、だんだん結婚生活もギクシャクしだし、そんな時、結婚して飼い始めてふたりとも可愛がっていたシャム猫が、死んだ。その時、ああ、終わったなあ、と思った。それでも、バリバリ仕事をし、夜遊びもしてたけど、なんだかカラッポな感じがして、ある日、ふと、セツ・モードセミナーに行ってみたくなった。それで、ふらりと、セツ へ行った。階段を上り、ロビーを抜けて、毎日たむろしていた懐かしい長いベンチに。授業中で、誰もいない。シンとしていた。するとちょうどそこに、コツンコツンと階段を降りてくる靴音がして、長沢先生が現れた。
      「ア、先生こんにちは」
     「アラ、オマエ来たの」
     「ハイ」
     「オマエ、お昼食べた? 食べてないなら、一緒に行こ。オマエ、どっか、店知ってんのか」
     「あっ、イエ」
     思いもかけない先生からの言葉。僕は頭のなかで、お店をグルグルと探した。長沢先生と行くんだから、どんな高級レストランへ連れて行けばいいのだろう。飯倉のイタリアン? 青山のフレンチ? 僕は遊びまわっていた高級レストランばかりを思い浮かべ悩んでいた。すると、先生が「すぐそこに、いいとこあるから、そこ行こ。着替えてくるから待ってな」
     え、学校の近所の曙橋に、そんな洒落たお店、あったかなあ。と、待っていると、先生がやって来た。
     「車で行くんですか?」「いや、歩いてすぐよ。ついてきな」
     先生は坂をトコトコ降りて行く。僕は後ろをついて歩く。信号を渡り狭い路地へ。こんな裏通りに、そう思っていたら、小さな木造の家のめし屋へ。慣れた手つきで先生はのれんを分けて入って行く。「ふたり」と声をかけると「そっちのカウンターどうぞ」と言われて、僕も入るとちょうど昼時、狭い店内はスーツ姿のサラリーマンでいっぱい。ギリギリ二人分の席に割って入った。派手なでっかいシャツにピチピチズボンのおじさんと、長髪、花柄シャツ、ベルベットのパンタロンに赤いブーツの若い男。何とも場違いなふたり連れを、スーツの皆はどう思って見ていたのだろう。その頃、すごくツッパって、すごくガンバってファッションの世界で仕事をし、イラストレーターとして出版社、代理店に出入りし、最先端なお店で夜遊びをしていた僕は、そんなめし屋、定食屋なんて入ったことがなかった。カッコワルイと、むしろ避けていた。「オマエ、なににする」呆然とカウンターに座る僕に先生が「サンマ定食、おいしいよ。それにしな。サンマ定食、二つ」まわりではサラリーマンたちがせっせと食事をしている。ただ黙って座っていると「ハイ、サンマ定食、二つ」
     先生は割り箸を割り、サンマに醤油をかけて食べ始める。慣れない雰囲気に呑まれていた僕は、オズオズとサンマ定食を突つき始めた。先生は、モリモリと食べながら隣の僕に「もっと、ガツガツ食べな」と言った。

その瞬間、突然僕の目に涙が溢れて来た。僕の中にそれまで張り詰めていたものが崩れていき、全身を覆っていたヨロイがバラバラと身体から剥がれ落ちていった。僕はボロボロと涙を流しながらサンマを食べた。先生は知らん顔で食べていた。先生に「お昼、食べに行こ」と言われて、カッコつけて洒落た高級レストランばかり思い浮かべていた自分の何とミットモナイ、浅はかなことか。親の反対を無視して高校を中退しセツ・モードセミナーに入り、家を飛び出して独り暮らしを始め、イラストの仕事を貰い、彼女と出会い、洋服の仕事、別れへ、そして結婚、離婚。……それまでものすごく張りつめて生きてきた。でももういい。僕は絵を描いていたいんだった。それが、自分のやりたいことだったんだ。たぶん、先生がお金を払ってくれたのでしょう。それからどう帰ったのか、なにも覚えていない。
     あの時の長沢先生の「もっとガツガツ食べな」の一言で、僕は生まれ変われました。そして 、今の僕があります。長沢先生、本当にありがとうございました。

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  1. 星信郎 より:

    ある日偶然、靖国通りで池田君に会ったことがあります。池田君はそのときカッコいいオープンカー、横には美人が一緒でした、車のスピードを落として僕に声をかけてくれました。互いに、ヤア〜、オ〜の挨拶でしたが、車はドドドーと去って行く、何故か池田君の存在が遠く感じましたよ。 
    しかし、このセツ物語をよんでみると池田君もずっと順風満帆ではなかったようですね、しみじみと哀愁を感じる文章でした。

  2. Bow。 より:

    星先生早速コメント有難うございます。色んなことが有りました。今日までただただしゃにむにやってきたなあ、という感じです。次から次へと仕事をもらえてやってこられたのもセツ・モードセミナーのおかげです。そして仕事をさせていただいた沢山の方々のおかげです。有り難う御座います。星先生をはじめ小泉先生春日部先生西田さん竹腰ママ、セツ・モードのみんなみんなこんな不良少年にすごくやさしくしてくれました。本当に有り難うございます!あの「サンマ定食」の時が後にも先にも長沢先生と二人きりになった時でした。

  3. 内川ひとみ より:

    池田くん、とか呼んじゃってごめんなさい。覚えてくれててありがとうこざいます。
    BOWがぼっちゃんからきてる名前だとは知りませんでした。アルファベットにするとカッコいいし、サインもステキです。
    昔ロビーに飾ってあった絵は車の絵が多かった覚えがあります。
    車上手いな〜.と思ってましたが
    人物上手いのですね〜!今更失礼ながら驚いてます。
    本当にあの頃は皆んな自分たちのために世界はある、みたいな楽しい日々でしたよね!そんな思いをさせてくれたセツ先生の存在は今でも偉大です。いいんです、過去は美化してこそ有るんですものね〜!
    紆余曲折さえも美しい。私は歌にしてみる才能はないけれど、デュエットして歌って見たいなBOWのギターと。シャルル アブナイルールで。

  4. 匿名 より:

    竹腰ママが「ぼくちゃん」と呼んで、峰岸君達に「ぼくちゃんなんてキモチワルイ。ボーっとしてるからボーでいいよ」と言われて、wを付けるとカッコいいとゆうことでペンネームにして、それからこんにちに至ってます。本名の方知らないひとが多い。「ミネギシ、アリガトウ」。瞳ちゃん絵をほめてくれてうれしい!。ありがとう。ギターはヘタクソだけどアズナブール僕も大好きだよ。セルジュ・ゲインズブー
    ルもね。瞳ちゃんのも楽しく読ませてもらった。先生のセーターやパンタロン作ったんだね。スゴイ!それにしても長沢先生は偉大だ。このページに寄稿してほしい各界の人沢山いるね。Bow。

  5. U より:

    BOW、覚えていますか?
    四谷の斜塔のクロッキーの教室で、先生方、そして厳しい眼差しで筆をとる生徒さんの輪の真ん中で慣れないポーズをとり、確か…ワンポーズ15分か20分、心臓がドキドキ緊張の毎日でした。
    そもそも霞町(現在の西麻布)に自宅があり、高校卒業後スタイリストを目指し高樹町にあるセツ・モードセミナーのアトリエに願書を取りに行った時、なんとそこは私が幼い頃通っていたバレエ教室の2階で…今思えば、そんな小さな縁もあったんだなあと思います。
    小泉先生の熱心な熱心なおすすめで、新校舎の四谷へ。そして、そこで生徒にはなれず、痩せていることがコンプレックスだった私が、いつもモデル。そして、あの銀座を歩いたモノ・セックスショー。あの頃は別世界に来た感がありました。
    その後、竹腰ママの紹介でファッションモデルの業界へ。
    BOWの描くかっこいい車の絵。今にもエンジン音をふかし、飛び出してきそうな躍動感ある迫力が好きでした。
    場所ははっきりしないのですが、(たぶん、竹腰ママの元住吉の自宅)BOWが弾き語りで「ジョン・B…」を唄っていたのを思い出します。
    その後、モデルの仕事も忙しく、斜塔を訪れる時間も少なくなってしまいましたが、私にとってあのセツでの2〜3年は、人生の素敵な想い出です。セツ先生も逝去され、斜塔もなくなってしまいましたが、そのDNAは皆さんの心の中に受け継がれ、いつまでも宿っていることと思います。
    あの頃の先生方、BOWをはじめ仲間の皆さんのご健康、そしてご活躍を心より応援しています。

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