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セツ以前の僕

大野真澄(歌手)
1968年~年在籍

セツ以前の話から、始めていいですか。僕が生まれたのは、1949年10月。愛知県岡崎市。家は左官業で、オヤジはおだやかな、歌の好きな人でした。藤山一郎が歌っていた『丘を越えて』のなかの “ 真澄の空は朗らかに” という歌詞から、僕の真澄という名前をつけた、というのだから。 …… そんな我が家にテレビが来たのは、1956年。初めて見たのは、国会中継でした。
  僕が10歳になる寸前の1959年9月26日。台風がやってきた。家が吹き飛ばされるかと思った。翌朝、2階へ上がると、天井に丸太が刺さっている。向かいの倉庫が壊れ、その木が屋根をつき抜いたのです。これが、伊勢湾台風です。

その頃、僕が好きだった歌手は、坂本九。『見上げてごらん夜の星を』とか、歌ってました。初めて買ったレコードは『上を向いて歩こう』。そして最初に聴いた洋楽は、ポール・アンカやニール・セダカ。そして、初めてのビートルズは 『プリーズ・プリーズ・ミー』。これまで聴いた音楽とは違う。14歳だった僕の音楽観は、一変したんです。
  学校は愛知工業高等学校のデザイン科へ。小さいときから絵を描くことが大好きで、とくに色エンピツのタッチが好きで、『鉄人28号』などを模写したりしていました。受験したデザイン科の入試倍率は、2倍。「不合格だったら、左官屋になれ」とオヤジに言われていましたが、無事合格。

高校2年の時、ビートルズの日本公演があり、僕一人で日本武道館へ行きました。でも、僕の席からステージは遠く、歓声で歌は聞こえず、でした。そうこうしているうちに、高校卒業も近づき、担任の先生は、地元で就職しろ、と言う。
  だけど、それより少し前のこと。大橋歩の表紙『平凡パンチ・デラックス』に載った長沢節の絵に出会っていたのです。見たことのない線、タッチ。それからは、僕の頭の中は、東京へ行ってセツに入学する、という思いで一杯になっていたのです。

幸い、合格。岡崎を離れたのは1968年。新宿に近い、小さな公園の脇に立つ木造アパートで暮らし始めました。6畳一間に半畳の台所。共同トイレ。風呂なし。家賃7千円。これは相場より少し高めでした。東京での初めての夜。もう、岡崎へ帰ることはないだろうと思い、フトンに横になると、急に寂しくなり、涙がこぼれました。(つづく)

1件のコメント | RSS

  1. 星信郎 より:

    大野真澄くん健在ですね。 大野君をセツでは皆んなでボーカルと呼んでましたね、ボーカルはいつだってギターを抱えている姿が思い浮かぶが、絵を描いてる姿がどうにも思い浮かばないよ。
    でもしかし、ボーカルが人物クロッキーが上手いことはよく知っていましたよ。この度のビートルズ、ドローイング、やっぱり流石です!

    砂場のある小さな公園となりのアパートは僕の住んでた所のすぐ近く、君とはお風呂やさんで偶然会ったことがありましたよね、憶えてますか? その帰りに僕のところに立ち寄って、いろいろと語りあった。セツに入学しだての大野君はまだ純情可憐、こやつ垣根の低い奴やなぁと
    思っていましたよ、笑うとエクボがあってね。
    やがていつの間にやら大野君には悪友が沢山できてしまって、皆んなはボーカルと呼ぶようになってた。 圭介、庄司君、峰岸君、田中スナオ、あの辺で皆んな元気元気でありましたね。

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