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長沢節先生に会えた日

早乙女 道春①(イラストレーター)
1986年~1990年在籍

私の中学高校生時代と言えば、熱烈アイビー少年で、愛読雑誌「MEN'S CLUB」や「POPEYE」が毎号教えてくれるIVYを中心としたスタイルや映画、音楽や車、果ては街遊びに至るまでの記事を猛烈夢中に鵜呑み吸収して過ごす少年だった。誌面の中でそれらのIVY文化を絵で示しておられたのが穂積和夫さん。文章で教えて下さっていたのがくろすとしゆきさんだった。そしてそのお二人が 師匠と仰ぐ、とてつもなく大きな存在である先生という人が「長沢節」という名の画家であるということを、熱心な読者であった私は知ることになる。ある時はポパイ誌面上に長沢節の絵を見つけて、そのあまりのCOOLさにびっくり仰天したこともあった。それでも自分自身の人生についてはのほほんと呑気に生きているうちに大学生になったが、サラリーマン予備校的な匂いに時折嫌気が差し、原宿や西麻布、六本木の街で夜遊びばかりしていた。ところが大学と違って街なかの遊び場には、やたらにカッコいいお兄さんやお姉さん達がひしめいていて、Hipなことならなんでも知っていた。そんな頃、あるお姉さんが言うには、「長沢節って学校やってるんだよ」… えぇ~っ!?… 衝撃を受けた私は、何がなんでも長沢節の学校に転校しなければならない!と決断した。

1986年春期生入学願書受付当日、20歳になりたての私が向かった「セツ・モード・セミナー」は、応募者が校外まで溢れ出して黒山の人だかりとなっていた。そこで人の山全員は、いったん校内に入るようにと命ぜられ、長沢節校長からの指示を待つようにとの達しがあった。その直後に階段の上から降りて来た長沢先生の姿は一生忘れられない。私にとってはまさに「うわぁ!ホンモノの長沢節だぁ!!」の瞬間である。

応募生徒過多につき、明朝8時、緊急措置として止むを得ず、くじ引きにて入学生徒を決定する旨訓示があり、倍率は3倍だった。… 3人に一人かぁ… しかし私には何の疑いもなかった。自分がくじに外れるワケはないという異常な、根拠の無い自信だけが横溢していた。

晴れて入学が決定してついに、ホンモノの長沢節先生自身と触れる日々が始ったという訳なのですが、想い出はあまりに多くてこの先はスペースがありません。またの機会に何処かでお話しして行こうと思います。まずは第一章、長沢節先生に会えた日までの、私自身のエピソードでございます。
 
(つづく)
 

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  1. 星信郎 より:

    早乙女くんスゴイ! あの年たしかにあの位置からセツ先生が皆んなに向かって事情を説明していたように思う、どっからどこまでそっくりのドローイング、ウマイもんだ!
    しかし大変でしたねあの年は、まさかのパニック状態で急きょ思いついたのが抽選くじ引きでした、何度うけても当たらない人もいて。

    • 早乙女道春 より:

      星先生、
      ありがとうございます!((^o^))
      現在から思うと冷や汗ものですが、あの時は自分がくじに外れるなどとは全く思っていませんでした(苦笑)
      ご好評をいただきまして、モリキヨさんより、都合3回の連載のご依頼をいただきまして、またまた冷や汗です!
      がんばって書きます。
      何卒よろしくお願い申し上げます。

      早乙女道春 拝

  2. 内川瞳 より:

    早乙女サンの入学した時はセツブームさ以来の時だったのですね。感性の研ぎすまされた人は限りなく思い出が鮮明であると思います。刺激的な?セツ先生の色々なエピソード沢山書いてくださいね。

  3. 内川瞳 より:

    又見直さないで送信してしまいました。笑 。セツブーム再来の字まちがいです。

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