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セツ先生の最後の海

minokamo 長尾 明子(料理家/写真家)
1996年~2001年在籍

セツ・モード・セミナー。

この絵の学校に通いたくて、20年前の私は岐阜県美濃加茂市から東京に上京したのでした。
 こちらの校長がファッションイラストレーターの長澤節先生。
 セツ先生がいらした時の、学校に流れていたエスプリの効いた空気は
 風の心地よい日に今でも思い出します。

学校で絵の合評は、みんなの絵を一面壁に貼りだし、生徒さんが好きな絵を選ぶスタイルでした。
 当然私の絵は誰にも選ばれないのですが、ある日節先生が「お前たちバカだナ! なんでこの絵を選ばないの、これは面白い絵ヨ! 」
 とまさか私の絵を選んでくれたことがありました。
 それから私は嬉しくて嬉しくて、無心に絵を描き続けました。
 素敵なひとは、一言だけでも素晴らしい力をくれるものです。

毎年、学校では千葉県の大原漁港にスケッチ旅行に行っていました。そんな大原漁港のスケッチ旅行、私にとっては5回目だったと思います。
 夕暮れ時の海沿い、隣で描いてらしたセツ先生が、私に嬉しそうに声をかけてきました。
 「どう?、オマエこれ、とてもいい絵でショ!  」といつものように、おどけておっしゃるので
 私は「まあまあですねっ(笑)」なんて返してみました。

どんどん日が沈む中
 先生は木箱に絵の具をしまい、自転車の荷台に荷物を紐でまとめていました。
 いつも元気なセツ先生!
 でも、夕暮れに照らされてたせいかもしれません。
 自慢の細いシルエットで荷物をまとめる先生の姿が心細く感じたのでした。
 よっぽどお手伝いしましょうかとお伝えしたくなったけど
 長年先生がされてる日常だから、いつものことだから、といいきかせ、夕日の中帰る先生を静かに見送ったのでした。
 翌朝、スケッチに出ようと表に出ると、いつも静かな海沿いの空気がざわめいていました。講師の方たちも、走って落ち着きがない
 セツ先生が、その朝自転車から横転し怪我をされたことを知りました。荷台のヒモが解けて、からまってしまったのです。

そのあとの数週間、セツ先生のいない授業が続きました。
 いつもは午後の授業が終わるとすぐ帰るのですが、その日は夜までいた記憶があります。
 夜の部の授業が終わると、講師の方が私たちを集め、亡くなられたことを知らされました。
 その日、帰り道のことは覚えていないほど、いろんな気持ちが出入りしました。
 しばらくずっと、夕暮れ時の先生の姿が離れませんでした。

あれから何年も経ちました。
 この学校がなければ、節先生がいなければ、東京に来なかったし、今の私が幸せに思う人たちとの出会いや仕事はありませんでした。

今回のお話をいただき15年ぶりでしょうか、当時の絵の具のチューブを取り出してみました。
 私の頭のどこにいたのだろう、15年前に伺った大原漁港の景色が広がりました。

セツ先生の美しい生き方 、絵のこと
 今でも、色んな色たちが美しく重なるように日々、生きているのです。
 
 

3 Comments | RSS

  1. 星信郎 より:

    そうでしたね、セツ先生のエメラルドグリーンの帽子、まぶたに残る。
    長尾さんも お名前どうり明るくて、いつも笑顔をたやさない。
    絵も明るく自由で素晴らしい。 お料理の方はどうなのかな?

    • minokamo(長尾) より:

      星先生、コメント頂きありがとうございます。器にお料理を盛る時も、セツで楽しく絵を描いていた時のことを思い出します。

  2. Masae Takanashi より:

    はじめまして。夏になると、電車に乗って画材道具を持った若者たちがやって来る・・光景が、大原っ子の私の記憶に残っています。当時はどこの誰なのか、地元の人に聞いても分かりませんでしたが、大学時代に縁あって穂積先生の指導を受け、幼い頃の記憶とセツ先生たちのスケッチ旅行がつながり、ハッとしました!大原が、南仏の漁村に似ている・・そんなお話も何かで拝見しました。現在、南仏に近いイタリア・ピエモンテ州に暮らし、その漁村を訪ねたいな‥と思いながらいるところです。世界中に訪れている未曾有の危機の中、どこか「うっとり」したい気分に見舞われ、このところ沢田研二さんに現(うつつ)を抜かしておりましたところ、早川タケジさんのご活躍に目が留まり、あぁ、またここでセツ先生に出会うのか‥と思っていたところ、こちらのページにたどりつきました。とりとめのない散文、長々と失礼しました。ぜひまた大原へも足を延ばしてみてください。どこか、もう私の知らない町に変わっているかもしれませんが、記憶の中の大原は、いつでも変わらず当時のままなのです。

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