ガラスと雨戸

ガラスが身近な存在になってからまだ新しい。日本人特有の感性は、それ以前から連綿として続いてきた紙と木と土だけの、長いながい歳月によって培われてきた。

時代劇で、これはと思うシーンがあった。
縁側をすべて開け放ち、庭をながめる侍の姿・・ところが・・・
小さな池の脇に綿帽子をかぶった庭木が立っている。さして広くない庭は白く積もった雪景色。部屋からながめる侍の視線の先には、昨日までとは打ってかわって色の消えた真っ白な世界を楽しむ若い男女。
寒さをいとわず家を開け放ち、内と外を一体化させて非日常のひとときを愛でる。
日本人の感性とは、本来こういうものなのだということをつくづく感じさせる、時代劇の一コマでした。
日本人らしい自然との付き合い方に感嘆し、かつ日本人の感性について考えさせられた。
時代考証にもとづき、わざわざこのシーンを映像化したことに敬意を表したい。

庭に面した面に雨戸を建て込み、すべてを開け放つときのために戸袋を設ける。角の方にも景色があれば雨戸を回転させてその先まで運び、何がなんでも開放してすべての雨戸を戸袋に収めてしまう。日本人の空間感覚と欲求を、建築的に表現すればこういうことになるのだろう。
室内環境をととのえるには、縁と座敷のあいだに障子を建て込んで空気を遮断する。それが視界をじゃまするなら景色と室内環境とを天秤にかけ、障子を取り外してでも視界を拡げて景色を採り込み、内と外を一体化する。居ながらにして景色を引っ張り込もうということだ。
そうでなければ縁側に居場所を移すか家の外に出るかすればいいのに、なぜか動こうとしない日本人。

日本人はぜいたくだ。
家に景色を持ち込んだり、一歩進んで軒下で眺めたり、もっと進んで景色のなかに身を置いたり、向こうの東屋から自分の家を背景にして景色をながめるなど、なめ尽くすように空間を大きく楽しむ。
その延長線上に、日本人の好む石庭や盆栽があるような気もするのだが・・・

ガラスは家のつくりを変えた。しかし日本人の感性は変わっていない。
雨戸はガラスにとってかわり、縁側も消えてなくなった。
日本人の空間感覚を、現代の家のつくりにどう反映させてゆくか。
大いなる課題と考えている。

 

ガラスと雨戸