反射光と映りこみ

強い反射光は時として、直射日光いじょうに眩しくて困ることがある。
夏場の太陽は高くて反射光が直接目に入ることは少ないが、海面の波頭や見おろす湖面などの反射は、やはりまぶしい。
冬場の太陽は低いおかげで目にやさしいが、床に反射した太陽光が座った際の目の高さでダイレクトに飛びこんでくるとすこぶる眩しい。目の弱い?西洋人の家に掃き出し窓がないのは、もしかしたら床の反射光が目に入るのを避けるため、腰壁でそれを防いでいるからかもしれない。
津軽の太宰治の生家に行ったときのぞくぞくするような明暗の変化を想い出す。感動したのは柔らかな反射光のせいだろう。
床に反射した外光は、あちこちの壁や天井に跳ね返りながら部屋の奥まで明るくしてくれる。昔の家には透かし欄間がある。なんども跳ね返って弱まった光がさらにそこを通り抜け、奥まった部屋をぼんやりと照らし出す。欄間を逆からながめると、その透き間からの反射光であかるく照らし出された隣の部屋の天井が、デリケートな空間のつながりを感じさせる。逆光でながめる透かし欄間の世界はドラマチックなのだとつくづく感じる瞬間だ。

雨上がりの水溜まりや手水鉢に反射した光が、軒裏や部屋の天井にゆらゆらと揺れる。静かであたりまえの建築に動きをもたらす数少ない光景だ。障子に映るススキの影やヤモリやクモたちの動きも楽しいが、抽象的な波紋の不規則な動きにはつい心をうばわれ見入ってしまう。
ゆらぎの景色を住宅の設計に持ち込もうと小さな池を仕掛けてみた。はじめてつくったとき、住んだ人がそれをビオトープに変身させてしまった。住宅の一角に生物が発生して別世界が生まれ、それはそれで楽しい仕掛けとなった。以来、設計した家にはかならずビオトープを設けている。目的とするゆらぎとは違ってしまったが、姫睡蓮のわずかな透き間から反射する波紋だけはかろうじて残った。

満月の月明かりは影踏みができるくらいに明るい。月の反射光はわずかで愛しい。そもそも月明かりというものは、太陽光によって生みだされる月の反射光であることを忘れてはならない。月夜の雪明かりは反射光の反射光ということになる。
弱いながらも月からの逆光で生じるお月見のススキや団子のシルエットは、月明かりならではの感動をもたらす。
水面に映り込む月に太陽のようなまぶしさはない。風がなければ水鏡にそっと現れ、風が息をすれば月もゆらめく。発する光が弱いからこそ人は月を見つめることができ、その姿にに想いをはせることができる。月に帰るかぐや姫を想像したり、餅をつくウサギの姿をながめれば現代人のストレスをかかえた心もすこしはやわらぐだろう。科学技術で拡大された月面のアバタなぞ見たくもない。
田ごとの月を眺めるのはあこがれのひとつだが、本当にそんな現象があるのかと疑問のひとつでもある。見た人がいるのだから、自分もいつかこの目で確かめたいと思う。
月見台も結構だが、その先に水面を設けるのも風情を楽しむぜいたくな仕掛けだ。やってみたいことのひとつだ。

映りこみのポピュラーな仕掛けに鏡がある。
設計する家の玄関にはかならず姿見を設けている。出掛けに服装の乱れなどを最終チェックするためだ。巾はせまくとも頭から足先まで映るよう縦長にする。デザインによっては床から天井まである。使うときは鏡の前に立って身繕いするが、そこに情緒はまったくない。
用のないときはただの鏡でも、ときにマジックのごとく壁の一部が消えたり、見えないはずのものが映り込んでふしぎな光景が出現する。まちがいなく空間も拡がる。
この鏡マジックを設計に採り入れることがある。玄関などがせまくて圧迫感があるときなど、正面の壁の一部を消して脇の壁が遠くまで伸びているように感じさせたり、欄間部分を鏡にして天井が向こうの方まであるように見せたりする。
リフォームや狭小住宅などで間取りが不自由なとき、設計手法として便利に使っている。

反射光と映りこみ

反射光と映りこみ