経年変化を楽しむ

素材というものは、時を経ればその分だけ変質してゆく。時とともに変化しつづけるもの、と考えるとわかりやすいのかもしれない。いずれにしろ、これが自然現象というものだろう。

人は生きているうちは常に重力にさらされている。その結果、しだいに皮膚はたれ下がってしわが増え、目もほっぺたも地球に引っぱられて一緒にたれてくる。魔法使いのお婆さんなんか鼻までたれ下がっている。
長いあいだ重力に耐えてきた老人が、子供のままの顔をしていたら考えただけでも気持ちが悪い。
~ときの流れに~身をまかせ~・・・自然の流れに逆らわないのが、しぜんな生き方なのだと思います。

住まいは、そこに住む人と共に何十年も生き続ける。住み続けることを前提にして建てているわけだから、時とともに家も人も変化してゆくのが自然のなりゆき。
人は、身のまわりの出来事とともに人生を積み重ね、見た目も中身も成長し、味わいを深めてゆく。
家はいえで、風雨にさらされながらも愚痴ひとつこぼさずに年をかさね、住む人とともにじわじわと変化しながら、こちらもまた成長してゆく。素材の色も渋みを増し、いつも人に触れられているところは、つややかに輝いたり傷ついたりしながら、味わいを深めてゆく。
家と人とはそういう切っても切れない関係なのだ。家も人も考えてみればどちらも自然素材。自然素材ならではの変化というものなのだろう。

北米産のレッドシダーの学名は、ヒノキ科ネズコ目。京都の町屋の格子につかわれている材料と同じだ。つまり、雨に強くて耐候性がある。
日本のネズコは、その特性と産地の関係から関西で多くつかわれてきたが、現在では山奥の運び出しにくい所にしか残っていないそうだ。よほど便利に利用されたのだろう。
ネズコのように耐候性のある樹種はそうはないから、手入れしやすいところにでも植林してはどうかと思う。自然素材として使いやすい国産のネズコを復活してもらいたい。しっとりとした美しい町並みがまた戻ってくるに違いない。日本人が元々もっているDNAのような感性をあらためて刺激し、再びよみがえらせてくれるかも知れない。

ネズコは京都の例でもわかるように、それ自体に耐候性がある。だから、長持ちするように加工したり、塗装を施したりする必要はない。
外壁のネズコは、長いときを経れば木目の柔らかいところは減って堅いところが浮きでてくる。それが風化であり、味わいというものである。スギもヒノキも風化してゆくが、ネズコはそれがゆったりとしているのだ。

百合ヶ丘の家

写真:百合ヶ丘の家