気持ちのいい階段

東京の地下鉄はどんどん深くなる。
新規の路線が既存のトンネルの下をくぐって造られるせいだろうが、そのたびにエスカレーターが長くなる。
長いながいエスカレーターに初めてのったとき、正直こわい思いをした。人の少ない時間帯なのでエスカレーターは下まで丸見え。見下ろす視界だけでもこわかったが、上のほうで誰かがつまずいて転んだりしたら、一体どんな状況になるだろうなどと想像してゾッとしたものだ。乗っている時間があまりにも長くてつい歩き始めたが、歩いても歩いてもたどり着かないのであきらめて歩を止めた記憶がある。

街なかにはいろいろな階段がある。通常のホームの階段はスペースに余裕があるからゆるやかな階段をつくることもできる。ところが地下鉄の入口など、限られたスペースにつくられる階段では急な勾配のものが多い。
急勾配で踊り場もない階段では、下まで一度に見通せる不安感から体がこわばる。
高台にある神社の階段にもキツくて長いものがある。階段の規定などなかった頃につくられたせいだろうが、降りるときなど、手摺に頼りつつ下を見ないようにしながらでないとこわくて降りられない。たとえ長くても、エスカレーターのほうが勾配がゆるい分だけまだましかもしれない。
階段を降りるときの危険性は、緊張感や不安感から体がこわばり、なめらかに体が動かせないことが原因だろう。スキー場の長くつづく上級コースはとてもこわいが、少々急でも少し先に平らな部分が見えていればこわさをあまり感じずにスムーズに滑降できるゲレンデと似ている気がする。もっぱら視覚的な問題ということなのだろう。

素足のせいか、家の中の階段は勾配が急でも気にならない。スペースが小さいせいもあるだろう。住宅の上下階は日常生活で密接な関係にあるから、少々キツくても段数を少なくして、出来るだけ早く到達したい気持ちが勝ってしまうせいかもしれない。
吹きぬけに面して腰壁もないような場合は視界がひろがり不安感が生まれる。そういう場合は安全のため、ゆるやかな階段にする必要がある。
安全性を高めると云うことは、寸法的にも視覚的にも不安感を取り除くことだ考えている。
人の感覚はよくしたもので、どんな階段にでも対応してしまう。おそらく始めの一歩でその階段の勾配を把握し、2段目からはスムーズに対応しているように思える。すぐれた能力だ。しぜんに備わった動物的な勘なのだろう。
陸上選手が走り幅跳びや高跳びなどで、利き足できっちり踏み切ることができるのと似たような能力かもしれない。
ケモノは階段の代わりに「ケモノ道」をつくって急斜面に対応する。彼らは危険性のない、きつすぎない勾配でかつ最短で昇り降りできるように急斜面を斜めに歩く。
われわれ人間はなまじ知恵を授かったものだから「階段」というものを発明し、エスカレーターも含めその作り方に右往左往している。そのうえ気持ちよく、不安なく昇り降りできて、空間と一体となった階段をなかなか造れないでいる。
少々の知識はあっても知恵のたりない設計者たち(自分も含めて)に猛省を促したい。
住宅の階段では、慣れてしまえば足が勝手にうごいて不安感もどこ吹く風。勾配がきつければ足の”逆ハの字”をより急角度に、よりガニ股にひろげて対応し、瞬間的に足元を調整している。ヒトのもつ野生と本能が無意識のうちにそこに現れ、気がつけばケモノと変わらない行動をとっている。

われわれは家の中をクネクネと最短距離で歩き回り、急な階段にもなんなく対応する。
人もやっぱり、ケモノなんですねぇ~

名古屋LIV