言葉に出来ない

ベルリン滞在の最終日、とあるレコードのパーティーに顔を出した。十四、五年前に私がベルリンに住んだとき、毎回楽しみに出かけていた場所だ。1960年代の黒人音楽のレコードをドーナツ盤で聴く小さな会であり、その主催者は、私がいわば人生で初めて会った「コレクターさん」。ことあるごとに自己紹介として主張してしまうのだが、「稀少本(稀覯書)」の世界のことを私がすんなり飲み込めたのは、以前こうした稀少なレコードの世界に触れていたからなのだ。物(レコードあるいは本)が人から人へ渡り歩くさま、その価値の変動、シーン全体の小さな規模、コレクターとディーラーとファンが入り混じっている様子。そっくりな点がいくつもある。

本屋になってひと段落した気がするし、今一度「稀少な」レコードの世界に向き合ってみたくなって、その場所に何としても行かねばと今回考えた。果たして行ってみると、その会の空気は昔と全く変わっていなかった。かつてと同じく小規模なまま。遠方からも人が訪れ、一期一会を楽しむ特別な場所。夜の街ベルリンで、週末に「アンダーグラウンドな小さい」コミュニティを作り上げることは特殊なことである。嬉しかったのは、おかえり、と言ってもらったこと。この十数年、二、三年に一回くらいは渡独してたまに顔をあわせていた人たちなのに、大切なのは、その特別な場にいることなのだなあとつくづく感じた。

帰国後10月中旬、金沢で私もレコードの小さな会を催した。その分野の日本での代表的なDJさんでありコレクターさんがレコードをかけに来てくださった。レコードは新発見のもの多数、パフォーマンスはこの上なく素晴らしく、お客さんのあたたかい反応によって特別な場が出来たにもかかわらず、運悪く機材の不都合で予定していた録音はうまくいかなかった。とはいえ、その場で体験しないと伝わらない世界だから、それで良かったとも思ってしまった。居合わせることこそ尊いことだ。何より大好きな音楽の世界に対して、私からささやかな発信が出来て嬉しかった。

特殊な世界に入ると、普遍的に説明するのが困難になる。言葉にするのはもはや不可能だ。なぜなら、それはそもそも「言葉」ではなく「音楽」であるし、また「音楽」のみでなく「場」であるからだ。古書の世界も同じだ。それは「本」であり「文字」も記されてあるのに、同じ空気の中でじかに見て体験してもらわないと伝わらない。とはいえ、人間はそもそも主に「言葉」によって伝達するので、いかに共有し場を作り深めるかは難しい。

気がつくと12月が近づいて、北陸の空もいよいよ曇って来た。京都で、今年はクリスマス前の週末に展示をすることになっている。案内状の写真をあれこれ迷った挙句に、ベルリンから持ち帰ったケーテ・クルーゼ人形の絵本が目についた。