日本のハイヂ

私が幼いころ、田舎の我が家に薪ストーブがやってきた。アンデルセンという名前の北欧製ストーブだった。煤で真っ黒になったガラスの奥であたたかい炎が燃えている様子を昨日のことのように思い出す。火種が出来、薪が真っ赤な炭になると、両親は扉を少しだけ開けて、大きなフォークに分厚く切ったチーズを刺し、火の近くにかざした。チーズがどろっと溶けだすのを待ち構え、急いでパンで受けて私と弟は必死になって食べた。「ハイジみたいなチーズの食べ方」と我が家では呼んでいた。

ペーター・ビュトナーさんから一年ぶりにご連絡が来た。やっぱり日本の『アルプスの少女ハイジ』(以下ハイジと記す)の初訳本が欲しいとのこと。在庫していた初訳第二版(野上弥生子訳、精華書院、1920年刊行)をお送りすることになった。

ビュトナーさんはスイスの学者さんでハイジの専門家だ。『ハイジ』といえば、1970年代の日本のアニメが知られているが、そもそもはスイスの女流作家ヨハンナ・シュピリが19世紀末に書いた児童小説として有名である。ビュトナーさんの曾曾おじいさんは、ハイジ本の最初の挿絵画家だという。そんなふうにハイジと縁の深い彼のところに日本のハイジをお送りすることが出来て嬉しかった。彼のご論考は、『ハイジの原点』(川島隆訳及解説、郁文堂、2013年)という本で日本のハイジファンも読むことが出来る。
ビュトナーさんのハイジプロジェクトのウェブサイト

実は、日本の『ハイジ』をスイスへ送るのはこれが初めてではない。一昨年も、川島さんのご紹介で、スイスのある財団にハイジの同じ本の初版を送った。不思議なご縁だなとしみじみ思うと同時に、スイスの人にとっていかにハイジが大切かを深く感じるばかりだ。

ビュトナーさんへの日本語『ハイジ』を梱包しながら、ふと自分の一番好きな場面を開いた。大都会フランクフルトから山へ戻ったハイジが、ペーターのおばあさんに本を読んであげる場面だ。ハイジが大都会で得た最も大切なことは、クララとの友情はもちろんだろうが、本を読めるようになったことだ。つまりハイジは本に出会ったのである。本を読む女性というのは、西洋の歴史においては近代的な女性の象徴だ。本と最も深く関係する女性は聖母マリア(註)だが、シュピリはこの場面のハイジをマリア様にもなぞらえている。この視点は、川島隆さんに教えていただくまでは気づいていなかった。このシーンを始め、シュピリの創作は実に巧みである。

一昨年に刊行した弊店の目録IIでは、川島隆さんと蓜島亘さんに「本と女性」というテーマで寄稿していただいた。ふたたび目録を出したいと、昨年から気持ちばかり焦ってなかなか完成しない。
 

(註)例えば、聖母マリアは、西洋絵画では常に書物(聖書)を持っている姿で描かれてきた。ハイジがペーターのおばあさんに朗読するのは、キリスト教の書物である。