木版の古い地図

遅れた夏休みを取って能登島に行った。鱚釣りをする夫の近くに簡易テントを張って本を片手にごろごろ。曇り空のなか、海から吹いてくる秋風が心地よい。ピーター・コーツの『花の文化史』(八坂書房)を読む。序章が全体の半分ちかくをしめ、本草図譜の歴史が簡潔にまとめられている。ただし、英国中心なので、私が大好きなドイツのヤーコップ・シュトゥルムなどは登場しない(ウィルフリット・ブラントが『植物図譜の歴史』の中で、素朴なシュトゥルム図譜にコメントしたのはつくづくすごいことだと感じる)。同じくドイツのバシリウス・ベスラーの名高い図譜も位置付けされないが、図版のところにだけちょくちょく顔を出しているのはどうしてだろう。今度仕入れに行ったら、ジョン・パーキンソン(『地上の楽園』1629年)の感じの良い図譜を手に入れて来たい。18世紀の『ボタニカル・マガジン』(ウィリアム・カーティス)も在庫切れだから補充したい。オーリキュラ劇場(ステージ・オーリキュラ)の伝統ってやっぱりすごいな・・・

様々なことを考えながら活字に集中していると、すっかり肩が痛くなった。起き上がって、夫のところに行き、竿を借りて私も釣り糸を垂れてみた。何度か底がかりしながらも、運良く二匹釣れたが、小さい鱚なのでそれはとても静かに上がってくるのだった。私は魚座だが、海の中のことを考えるとなんだか怖い。波をじっと見ていると、得体のしれない生物が上がってくるような気がしてしまう。例えば、セバスティアン・ミュンスターの16世紀の地理学の書物『コスモグラフィア』の中にあるようなイメージ(図版参照)が湧いてくる。

この部分だけ見ると非科学的と感じられるが、この書物は世界を四大大陸に区分した初めての書であり、当時の最新の地理についての情報が記されたものだ。著者ミュンスターは、ハイデルベルク大学などで神学やヘブライ語、数学の教鞭をとった学者であり、ヘブライ語聖書の翻訳者としても有名な、学者の中の学者である。とりわけ私が興味深く思っているのは、彼が自著の資料の出典を示し、先行する業績に謝辞を述べた最初の地理学者であったという点だ(ジョン・ディー「ヨーロッパ:地図出版の起こり」『世界古地図』(ブリッカー所収)。『コスモグラフィア』冒頭には、「これらの学者たちの意見を私は参考にした」と識者の一覧表があるらしい。今度完本を手にすることが出来たら、ぜひそのページを直に見てみたい。情報が溢れる現代、「引用」や「謝辞」はいよいよ意義深いものと信じるからだ。

金沢に帰って、在庫している『コスモグラフィア』の地図を取り出して眺めた。先の海の怪物図ほか何枚かあったが、いくつかはお客様の元に行った。動物図は数枚あるけれども、大判地図は現在二枚だけになっている。そういえば、最近入荷したものの中に『コスモグラフィア』らしき街の地図が一枚含まれているのだが、まだ調べられていない。そんなことを考えながら、ふと、サルマティア地方の地図左側の山脈の名前が気にかかる。「Riphei montes」とある。実在しない山脈ではないか?ウラル山脈のことか・・・?古地図を眺めるのは楽しい。