心も体も温まる母の味、大和の茶粥

より古い姿を残す「食べる」茶

大和の人にとって、お茶は「飲むもの」というだけではなく、「食べるもの」でもあった。ほんの数十年前まであった、大和の日常生活の原点だった茶粥。奈良とその近隣地域で食されてきた茶粥は、伝統食としてあまりにも有名だ。
中国の雲南省のある地域やミャンマーなどでも、茶葉をスープにしたり、茶粥にするケースが散見される。この地域で作られる発酵茶は、四国の阿波番茶や碁石とほとんど同じもの。茶の原産地と言われる雲南省エリアと日本とのつながりから見えるのは、より原初的な利用法、「食べる」茶だ。その茶文化は日本各地の山間部に定着し、焼畑農業による輪作の一つとして茶が植えられたという。後に放置され、木々の下で細々と野性化した茶をヤマチャと呼ぶ。紀伊半島のヤマチャの分布は、かつて焼畑農業が行われていた山間部とほぼ一致する。このヤマチャを自家製茶したものこそ、茶粥で使われる番茶のルーツともいわれている。
大和高原や吉野地方は、古くから近隣平野部と密接な交流を続けてきた。物資だけでなく、稲作や製茶などにかかわる労働力の交換もあった。そのなかで茶粥は平野部にも伝播したのかもしれない。しかし、何故ここまで茶粥は広く大和に根付いたのだろう。茶粥文化を育てたのは、人々の生活そのものに違いない。茶粥の湯気の向こうに見え隠れするのは、つつましくも逞しい、主婦の姿だ。奈良県山添村のご高齢の女性たちに、当時のお話を伺った。

 

一日の始まりは茶粥から

朝、暗いうちに起き、まずはオクドさんの火をおこす。松葉や松枝につけた火を、割木へとうつす。まずは、おかいさんの茶を炊くクドさん。で、ご飯を炊くクドさん、大根や芋を炊く小さなクドさんにも。同時に3つの釜の面倒を見なくてはいけない。大和茶の産地、奈良県山添村のかつての日常。その一日の始まりが茶粥であったことの必然を知りたくて、実際にみなさんに羽釜で茶粥を作っていただくことにした。

「釜はピカピカにしてたよ。すぐ黒くなるから毎晩、磨いてた。朝、汁が吹きこぼれても、姑さんが起きはる前にふき取ったんよ。釜のお陰で食べれるんやもん。尊敬すべき神様みたいな存在」(新瀬八千代さん70歳)。

「すんなり炊かへんことも多かったよ。火がつかへん思たら、今度はブクブク吹き出したりね。泣く子を背負いながら、こっちも泣きそうになって朝の準備してたわ」(中辻サトエさん 91歳)。

中辻家のヒロシキには囲炉裏の代わりに火鉢が

中辻家のヒロシキ(玄関土間に面した板間)には囲炉裏の代わりに火鉢が。明治生まれのお祖父さんがされていたように、今も寒い日には、サトエさんが炭火を起こす。

茶畑や米以外にも、多種類の豆、野菜、芋を栽培する農家にとって、四季折々の農作業は絶えることがない。冬は、一年分の薪や柴をこしらえる「山行き」の仕事が待っている。1日三食では重労働が続かないため、遠くの田畑に行くときは、午前中の間食(ルビ:けんずい)の茶粥と、昼食の麦飯の弁当を持参する。

「アルミのハンゴウやヤカンに朝の残りの粥を入れて、オヒツに麦飯入れて。昔は田畑のそばに野小屋があって、お椀やらお箸を置いてたん。そばに足を洗う池もあってね、雑巾も置いてて。楽しかったわあ。野小屋の思い出ばっかり」(田和敏子さん 83歳)。

 

集まった女性たちの表情が次第にほころぶ。「箸がない思たら、木の枝、折って箸にしたりなあ」。辛いだけではない、農的生活。大地に足をつけて生きてきた人々の言葉は、リアルで温かいイメージを広げてくれる。

 

おいしい茶粥の秘訣

爽やかな茶の香りが広がる。

爽やかな茶の香りが広がる。キビキビと手際いいみなさんの動きに脱帽。

緑茶は煮ると苦いので、カフェインの少ない番茶を使う。家によって異なるが、茶工場で蒸した茶を持ち帰り、家で天日干しにした茶を使うこともあった。まろやかな太陽の香りがするのだ。事前にホウラクで煎ると、ますます香ばしさが増す。茶袋を入れた水が沸騰し始めた途端、あたりに香ばしい湯気が広がった。一同、歓声を上げる。炊飯の蒸気はムワッと立ちこめる感がする。ツワリのある妊婦にはこれがたまらなく辛い。が、茶の湯気のなんと爽やかなこと。すかさず、洗い米を釜に投入し、隙間を少し開けて蓋をする。別鍋で小豆粥も作ってくださることになった。昨晩、やや固めに炊いておいた小豆を、途中で加える。沸騰して十分な濃さの茶汁になったら茶袋を出すが、茶の香りはまだまだ続く。あとは炊き加減を味見し、米が柔らかくなりすぎないうちに火を消して塩を入れ、蓋をして蒸らす。

サツマイモ、ジャガイモ、カボチャ、小豆、エンドウ、ササゲ、ウズラ豆、トウロク豆、はったい粉、小麦粉の団子、かき餅。季節によって、さまざまな実(具)を入れることで、茶粥はバリエーションがぐんと広がる。吉野地方では雑穀やトチの実、カシの実も入れることがあったという。季節感たっぷりの具は、大きな楽しみ。米の消費を抑えるためだけに具を入れていたわけではなかったのだ。

 

「お釜は神様みたいに有り難い存在」

大きな釜をひょいと手にとり、てきぱきと洗う。「お釜は神様みたいに有り難い存在」。

晒し木綿でつくった手縫いの茶袋(チャブクロ、チャンブクロ)

晒し木綿でつくった手縫いの茶袋(チャブクロ、チャンブクロ)。長年使うと茶色に染まってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

粥はエネルギー源としては不十分なため、間食や昼の麦飯が必要だ。毎朝、ご飯を炊きながら、同時にわざわざ茶粥も欠かさなかった理由。それは、一日の始まりにふさわしい爽やかな香りに加え、季節の食材を気軽に炊き込める“懐の深さ”にあったのかもしれない。さらに温度調節機能とも言うべき利点もあった。冷めても火にかければ、すぐ温まる。冷ご飯にかければ、ご飯は温もるし、熱すぎる粥の熱もとれる。夏には井戸の水で冷やして、ひんやり喉越し良く。あったかい小麦団子が食べたくなったら、粥と一緒に一煮立ち。茶粥は、いわば万能スープ。日々、飽きることのない味わいを生み出す、大地の食べ物だったのだ。

団子

団子は、耳たぶほどの柔らかさに水で錬った小麦粉を、親指で半月型に押し広げるようにして粥に入れる。団子だけ出して醤油をつけたり、お椀の中の団子に味噌をつけたり、家によって食べ方はさまざま。トロリとしておいしい。

熱々の茶粥を冷やご飯にかければ、食べやすい温かさになる。

熱々の茶粥を冷やご飯にかければ、食べやすい温かさになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、温かな粥ができあがった。仏壇にお供えしてから、いただきます! 茶特有の滋味が、違和感なく米になじんでいる。茶は粘りを抑える効果もあり、さらりとした食感が小気味良く、箸が止まらない。心身が温まり、リフレッシュしていく。温かい茶粥を、体が喜んでいるのが感じられる。

ふと気づけば、茶粥を作ってくださった女性陣が、微笑みながらこちらを見守ってくださっているではないか。その慈しむようなやさしい眼差しに、思わず箸が止まる。家族を思い、田畑や山を思い、火と水で日々の糧を設える。自然とつながりながら、精一杯に生きてこられた方々の知恵と心。茶粥がこんなにも心を満たしてくれるのには、深い理由があったのだ。微笑む村の方々と、家の外に広がる自然に、手を合わせ頭を下げた。ごちそうさまでした――。

 

茶粥のつくり方
米の5~10倍あまりの水に、番茶かほうじ茶を詰めた茶袋を入れ、沸騰させる。沸騰したら洗い米を入れ、吹きこぼれない程度に隙間を開けて蓋を。吹きこぼれそうになったら、蓋を開けて軽く混ぜる。お好みの濃さの茶湯になったら、茶袋を取り出す。米が柔らかくなりすぎないうちに火を止め、蓋を閉めて蒸らす。茶粥は家ごとによって、微妙に作り方が異なる。米や茶の分量、茶袋を出し入れしたり、具を入れたり、火を止めるタイミングも、家によってさまざま。沸騰してから約30分ほどで出来上がるが、これも好みで調節するといい。

 
 
参考文献
『聞き書 奈良の食事』農山漁村文化協会
松下智『幻のヤマチャ紀行~日本茶のルーツを探る』淡交社
谷阪智佳子『自家用茶の民族』大河書房

 
 

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。