irodori


秋から冬にかけて和菓子の世界は美しく楽しい季節を迎える。店先の練り切りや羊羹の色形にはため息が出る。私も「作ってみたい、真似てみたい。」と思うのだけれど、どうしても色使いのところで二の足を踏む。小豆の種まきから収穫、炊いて、漉してと手をかけた餡に合成の色を加えることにためらいがあるから。極力自然の素材を活かしつつ、季節の葉や実などで「irodori」を添えて楽しめたらと思っている。

洋菓子にもミントやセルフィーユなど飾りに葉っぱが添えられているのをよく見かける。フルーツやチョコレートなどで飾られたケーキにフレッシュなグリーンを合わせると映える。価格や流通の仕組み、食の安全などからすると無難で費用対効果があるのだろうけれど…


里山の中には季節ごとの美しさが詰まっている。毎回、菓子の下ごしらえができてから、手籠を下げて市場にでも出かける気持ちで森や田んぼを歩く。とはいえ自然は一期一会。自分で欲しいと思うものが見つかるとは限らず、「今日は何があるかなぁ…」と目を凝らすと今まで使われていなかったものが「ここにもあるよ」と声をかけ、手を振ってくる。

稲刈りと聞くと葉っぱは茶色のイメージがあるかもしれないが、垂れる穂の合間に、ツンツンと爽やかな黄緑の葉が天を向いている。『稲穂』の落雁や『米俵』の型で作った洲浜に合わせると秋の風景が広がる。

晩秋の田んぼには二番穂。稲刈りの後、命をつなげようとして再び実をつけるものの不稔の小さな穂が寒空に揺れている。雀たちは秋の実りですっかり太って、寒さに羽を膨らませる『ふくら雀』となる。


秋の初めの新栗の頃。まだ野生の栗の葉も青々と瑞々しく『しば栗蒸し羊羹』を引き立ててくれる。深まる季節とともに葉は黄色く色づき移ろっていく『しば栗蒸し羊羹・白小豆』『栗ひとつ』。アエノコトも近くなると吹き飛んでなくなる葉っぱ。箸でつまんだ栗餡を『雪囲い』の茅に見立てて。

 能登大納言の蜜漬けを野の葡萄に見立てた錦玉羹『えび』。「えび」とは山葡萄の古名で、葡萄葛のことを指す。山に自生する野生の葡萄エビヅルの蔓をあしらう。栽培もののように大きな房にはならずに疎に実をつける。蔓はジグザグに曲がりながら林縁の木々に絡まる様子を写して六角形とした。食べる直前に山葡萄から作ったバルサミコをかけて。

 オニグルミの生落雁『山づと』は黒砂糖と寒梅粉のしっとりした生地に、生のオニグルミを芯にした餡玉を挟んだもの。オニグルミの樹皮で編んだカゴにオニグルミの黒く色づいた葉を敷き込んだ。沢沿いの湿った落ち葉を踏み締める足音が聞こえる。

猪の子供のうり坊を象った『亥の子餅』、鹿の焼印を押したふやき煎餅『鹿鳴く』。動物たちが秋の野山を駆け巡る様子も紅葉の間に垣間見えるかもしれない。いずれも優美な茶湯の世界とは裏腹に、どちらも深刻な里山の獣害をもたらして大変な状況ではあるけれど、それも人間の環境破壊のせいであったり…そんなこともお伝えしつつ。

芯に揚げたムカゴを包んだ薯蕷饅頭『たらちね』。ムカゴとはヤマノイモ属の蔓になる肉芽の事で、秋になるとヤマノイモの蔓の葉の付け根辺りに沢山付き、地下の芋同様貴重な山の幸として食用になる。これを埋めておくとタネと同じ働きをして芽が出てくる。薯蕷饅頭の皮はヤマノイモでできているので親子饅頭とでも言おうか。蒸し立ての饅頭に芋の葉を貼り付けた。集落の古老は晩秋に色づく黄色いハート形の葉っぱを目印に芋掘りをすると言う。


「来年もよく実りますように。」とのおまじないから、木の先端にひとつふたつ残しておく柿の実を『木守り』と呼ぶ。白小豆に生の柿のピュレと干し柿を合わせ、紅麹とクチナシで染めた外郎で包んだ。庭先の柿の木からヘタを集めてのせると頭上には鉛色の低い空が広がる。

『木枯し』。自家栽培の在来小豆と白小豆の練り切りに、中餡はしば栗。木の葉に見立てた胡麻を散らし、茶巾でキュッと絞る。つむじ風が吹き渡り、あとには常緑のアテの葉ばかり。

私にとって、「irodori」は、ただ見た目の美しさを添えるだけではない。菓子のうしろにある時間の流れや見えない背景を思い起こさせ、自然との距離や意味を考えさせてくれる。そんなもの。

背戸を開いたら落ち葉が吹き寄せて、の菓子になった。