不作の理由

9月の終わり頃から始まる実りの秋も、そろそろ「終盤戦」。畦や耕作放棄地で栽培している小豆や大豆、菜豆類。山の果実や木の実も次々と収穫時期を迎えて、うかうかしていると適期を逃したり、鳥や小動物に食べられてしまう。だから「イクサ」と言っても過言ではないだろう。

今年は過去11年の小豆栽培の中でも一二を争う凶作。種まきの時から芽出しが揃わなかった。というのも発芽しないと思っていたのは、どうやら鳥害だった。

7月のある日、畑に降りたらキジのつがいが地面を突いていた。あまり賢そうに見えなかったので、少しぐらい食べられても、また蒔けばいいと甘く見ていたら…

私:おかしいな?芽が出ない。またタネ蒔いておこう。→キジ:ラッキー!アホやなあいつ。

種蒔き前のキジの様子

鳥害対策に畑に糸を張って防除する方法があるけれどキジには効果がなく結局、苗を作ってから定植した。既に7月初めの「小豆はネムノキの花が咲く頃までに蒔く」という集落の暦からは遅れをとっていたけれどどうにかやってみる。

ようやく少し畑らしくなったところにイノシシに踏み荒らされた。小豆の苗を食べるというより畑の土の中のミミズや虫を掘り返して食べるようだ。

急遽集落の知人に頼って電気柵を設置した。電柵に伸びた草が触れないように草刈りを週一のペースにしなければならなくなった。

ひと息つく間もなく今度は大雨で水没。今年から導入した耕運機で高畝にしてあったものの、すっかり水に浸かってしまった。2~3回そんな雨があった。

夏も本番を迎え、水が引いてから土寄せした。花が咲き、鞘がつきそれなりに育ってきた。株が小さい分少ないけれど枝葉が小さくコンパクトだから収穫の取り回しは楽かなと思っていた。

夏の暑さがそろそろ終わりに近づいた頃、葉っぱに白い粉が吹いたようになり、うどん粉病が出てきた。葉っぱから光合成をして養分を送れないと実が入らない。鞘がついても「今年は無理だな…」と内心腹をくくっていた。夫は「そんなネガティブ思考で諦めるな。」と言うけれど気合いでどうにかなるものではない。

「うちの畑だけなのかな?」と集落のばあちゃんに聞いてみたら「ウチもや。まんで穫れんかった。気候やろ。」と言う。数年前は全国的に小豆が不作で和菓子屋さんなども原材料の調達に困っているとニュースが流れていた。大納言などは年によって収量にばらつきがあって農家さんも大変そうだ。

数年前「自家栽培の小豆で菓子を製造して、販売する。」という事業計画を書いて地元の信用金庫に融資の相談に行った。担当者の方に「仕入れ先はどちらですか?」と質問され、「山です。」と答えて呆れられた。また「小豆が足りなくなった時にどこかから仕入れた方が良いのでは?」とアドバイスいただいた。

でも、この2年「自家栽培して菓子にする」ということをやってきて、原材料が足りなくなるということはなかった。実際去年は今までにない豊作で使いきれない小豆が収穫できた。氷温庫に保管しているので劣化することなく、むしろ熟成して保存できている。2~3年のスパンで見て、(豊作+凶作)÷年数と平均して俯瞰すると、一喜一憂しても仕方ない。

「赤い小豆が今一つでも、白小豆は普通に穫れた。」とか、パンダ豆やインゲン系、赤えんどうなどそれぞれの収量のバランスは毎年違う。それによって作る菓子の種類や量を調整すればいい。

畑や畦で栽培する小豆や大豆といった作物は、自然界の中では人工的なもの。のがしで使っている、山の木の実や果実、葉っぱは自生する野生のものだ。こちらもまた「なり年」という豊作があったかと思うとサッパリの年もある。今年は過去10年くらいの中で、かつてないツノハシバミという和のヘーゼルナッツの当たり年だった。

でも、しば栗は全くダメで、たくさんの方々にご愛顧いただいた「しば栗パフェ」は4日間ぐらいで、あっという間に終了した。今年はマイマイガという毛虫が栗の葉を食い荒らしたので、実に養分が行かなかったのかもしれない。

山の木の実でもオニグルミの方は豊作。高齢化で拾う人がいなくなったのか、沢山拾えて、嬉しいような寂しいような。

挿木で殖やしたサルナシは順調に実の数がふえている。

今にして思うと、今年は外でマムシも一回も出会わなかった。家の中で梅雨時には数回はお出ましになる大きなムカデも、秋口に弱ったのに一匹捕まえただけ。カメムシの冬籠も全く数が少なかった。

「小豆の不作」とヘビやムカデなど生き物たちの因果関係はないのかもしれないけれど、同じ時間と空間を共有して生きているものたちだ。小豆の葉っぱを食べる虫や地中のバクテリア、酸素と二酸化酸素の交換だったり、食う食われるの関係、水を吸い上げたり、蒸散したり、根粒菌が窒素を固定して…私たちの目に見えない、気がつかないところで、巡り巡って繋がって、一つの谷にいる。

都市にいると何かの理由でライフラインがストップしたりすると食べ物の供給ができなくなる。災害などでコンビニの棚が空っぽになるように…一方で農村では、たとえ何かが不作でも、「食べるものは他にもなんかある」という安心感はある。集落の家々の庭先に柿の木を植えてあるのは、昔飢饉などで食べ物に困ったときに救荒食になるからだという。縄文人がハイカロリーのオニグルミで冬を乗り切っていたように、案外身近なところで利用できる植物資源は豊富だ。そしてそれら全てが採れない年というのも、そうそうないと感じている。

そもそも、「今年は自家栽培小豆が不作なので◯◯産ブランド小豆で作りました!といったら「の菓子」じゃなくなるんじゃないか?」という気もする。この谷にあるもので、この谷にある水で、こしらえるから、ここでやる意味がある。

大変そうに聞こえる「自分ルール」かもしれないが、意外とハードルは低い。だって「あるもの」で、「できること」をやるだけだから。そう「冷蔵庫の残り物でチャーハンを作る」みたいに…「あの木の実とあの葉っぱを使って、あの植物の意匠の菓子を」と考えるのは楽しい。制約がある方が工夫も生まれるというもの。

でも何よりは、今年一年、巡る季節を追いかけて、今ここにあるものを、分かち合ってくださる方々と共に、豊かさをシェアできたらそれでいい。

それにしてもやっぱり気になるのでメモしておこう。

「マムシとムカデを見ない年は、小豆は不作になる。」