犬の子まき

長い冬が明け、薄紙を剥がすように春がやってくる能登。まだ肌寒い陰暦の2月15日頃、輪島にあるお寺では涅槃会という法要が執り行われる。(2月末から3月初めにかけてお寺によって時期がずれて行われる。)お釈迦様の入滅された日に、その教えや徳に感謝するために営まれる追悼法要で、本堂などにお釈迦様の臨終の姿を描いた「涅槃図」が掲げられ、お釈迦様の最後の説法を読みあげられる。その後参拝者にお釈迦様の舎利(遺骨)に例えられた団子が撒かれる。北陸各地で行われる風習だが特に輪島では動物を象った団子「犬の子」まきは早春の風物詩として有名だ。

十数年前、アメリカから能登に移り住んだ頃、近所の人から「いんのこ貰ってきたから、腰に下げといたらマムシに噛まれんよ。」と半紙の包みをいただいた。前年の夏の終わりに夫がマムシに噛まれ夜に救急車を呼ぶ騒動を起こした後の、三月の初めのことだった。「ツチノコ?インディゴみたいに蛇の嫌いな匂いの植物?」と開くと小さなお餅の置物みたいなものが三つ入っていた。

手で捻り出して作った、鳩のような鳥、狛犬のようなコロンとした犬、とぐろを巻いた蛇の形の上新粉で作ったしんこ細工。信心深くもなく、今までお守りを頼りにすることもなかったけれど、「あのマムシ事件」は懲り懲りだった。それよりも鉛色の冬の終わりに、手のひらに舞い降りた「犬の子」に惹きつけられた。米の白色に刷毛で引いた鮮やかな赤や緑の模様の動物たち。古民家のベンガラの板戸の隙間から差し込む陽を受けて、春を運んできてくれたようで、ちょっぴり涙ぐんでしまった。

能登の人々は信仰心が厚く「犬の子」を毛糸で編んだ袋に入れて無病息災や交通安全、厄除けとして身につけたり、または焼いて食べることでご利益があるという人もいる。お寺で授与されありがたく受け取る風景を想像した。その後、門前町の大本山 總持寺祖院の涅槃会があると聞き訪れてみた。本堂に婆ちゃんたちは静かに頭を垂れて、体を屈めて手を合わせている。私は二歳の娘がぐずらないかと、ご住職のお話に気もそぞろ。ようやく待ちに待った「犬の子まき」が始まった。節分の豆撒きの様にお坊さんたちの手から「犬の子」が宙を舞って降ってくる。するとあんなに縮こまっていた婆ちゃんたちが、畳の上を野球のスライディングみたいに滑り込んでくる。「わ〜。きゃ〜。こっちや〜!」と賑々しい。想像したしんみりした行事とは真逆の豹変ぶりに呆気にとられたけれど、農村のおおらかな春の始まりに元気をもらった。総持寺の「犬の子」は白のみの彩色のないものだったけれど、それもまた清々しく美しい。それから数年、輪島市内のお寺の涅槃会を時折訪ねさせてもらった。

黄、緑、青、ピンクの鮮やかな色彩の「蓮光寺の犬の子」

次第にどんな人たちがどんな思いで「犬の子」を作っているのか気になり、現場でお手伝いさせていただいた。青地さんに案内いただき浄土宗法蔵寺の檀家さんの輪島海士町の「犬の子」作りを訪ねた。漁協の建物は3~40位の人で朝から賑やか。調理室では女性たちが上新粉を練って丸く円板状にして竹籠に入れ茹でている。彼女たちの多くは夏は舳倉島でアワビやサザエを素潜りで採っている海女さんたち。茹で上がると臼で搗きまとめ広間へ運ぶ。

部屋いっぱいに並んだ長机には丸めるのを待つ人々が待ち構える。細長い紐状にしたものを包丁で「犬の子」一つ分の小口に切り分ける。慣れた手つきで転がしたり捻ったりして鳥、犬、蛇を作っていく。

次に彩色係の人たちのところで食紅の赤と緑を使って筆で「犬の子」の背中に色を挿していく。墨で目と鼻を入れたら麹蓋という木の長手の盆に並べて数日乾かして涅槃会を待つ。柔らかすぎても硬すぎても良くないらしく塩梅に気を遣うという。確かに外で撒かれる「犬の子」も割れたり傷ついたりせずに不思議にスーパーボールの様に跳ねていた。

生地を少し分けていただいて私も「犬の子」作らせてもらいながらお話を伺う。私の住む山間の集落の行事より人の集まり具合が圧倒的に多いので、その理由を問いかけてみると「私ら海に出たら危険が隣り合わせ。同じ船の上の運命共同体や。」と答えが返ってきた。

同じく海辺の町、輪島崎の永福寺では漁師の男性のみで作られる「犬の子」。市堀玉宗住職の説法の後に撒かれた「犬の子」は赤と緑のシンプルな彩色。犬の足が折り畳まれた様な作りは他所と違っていた。お寺それぞれに伝承された特徴がある。

山間の集落、別所谷町の日蓮宗の成隆寺に坂本賢治さんのご案内で伺った。地元住民の方々や井前本康上人が主宰されている柔道教室の子供達など老若男女で「犬の子」を和気あいあいと作られていた。こちらは捏ねた上新粉で形作って蒸した後、彩色をするやり方で精細な形と細やかな色付けの「犬の子」を作られている。中には虎や拝み猿などいう珍しい形もある。

涅槃絵当日には、「犬の子」とともにバラ菓子も飛び交う賑やかな様子に子供達も大喜びする。

民芸品の様な色使いに鼻も描かれて愛らしい「犬の子」
民芸品の様な色使いに鼻も描かれて愛らしい「犬の子」

間近で見せていただいた涅槃図には「犬の子」のモデルとも言われる釈迦の亡骸を囲み嘆きなしむ動物達が色鮮やかに描かれていた。


涅槃図には十二支の他に象や虫など様々な生き物がいる。猫がいるものは珍しいと言われているとのこと。

インターネットが世界を巡る便利で忙しい世の中に、今でもこうして自然に向き合い、家族や仲間と集い、「犬の子」を丸め、祈る人達がいることを目の当たりにして、「本当の豊かさとは何だろう」と問われている気持ちなった。素朴だけれど愛らしい犬の子に「菓子の原点」を見た気がする。