第35回 有田と染付 vol.2

有田と染付

戦後の昭和とはどういう時代だっただろう……と思いを巡らせてみると、キーワードとして浮かぶのは、やはり「工業化」と「大量生産」、そして「生活の利便性の向上」。高度成長にまつわる言葉ではないかと思います。
前回のコラムではざっくりと、そんな時代の食卓に適していたのが染付の器であった、というようなことをお話ししました。ただ、ちょっと言葉足らずの部分もあったかと思うので、今回はそのあたりについて、もう少し補足的にお話を進めていきますね。

有田と染付

戦後は、米軍の占領期を経ることで食の西洋化が急速に進み、日本の食卓には「家庭料理(和洋中折衷)」という新しい食のスタイルが生まれました。
それは、和食とともに育まれてきた伝統食器とは馴染みにくいものだと捉えられ、漆器や土もの(陶器)は不便な器として避けられるように。ただ、そういった時代の流れのなかでも、染付についてだけは「耐久性があり(吸水性がなく風合いが変わらない)、便利である(電子レンジとの相性が良い)」といった理由から大量生産され、新しい食卓に順応してゆきました。
それが、昭和の食卓で染付を使う機会が増えた要因でしょう。

有田と染付

その後、バブルがあっけなく弾けると、大量生産という物量至上主義に対する反省から、それまで顧みてこなかった伝統的な手仕事が見直されるように。
その結果、器という世界では、小さな工房や若手作家の手になる作品を「日常の器」として使う動きが広がり、漆器や土ものといったジャンルの中では、多くのファンを持つ作り手も登場しました。
利便性を優先するのではなく、きちんとした手わざによってつくられた陶磁器や漆器を自分の眼で選び、日々の生活の中で大事に使ってゆく、という新しい価値基準が生まれ、器選びの選択肢は劇的に増えたのです。

有田と染付

そうした流れに押され、大量生産時代の記憶ゆえか、染付の器はいっとき見かけることが減ってしまったようにも思えましたが、この四半世紀で手仕事ブームの波が幾度か巡るうちに、絵付け技術が未成熟であった黎明期の染付(17世紀前葉)の風合いに惹かれる人が増えてきました。
工業的に生産される昭和的な染付ではなく、かと言って、精緻に絵柄が描き込まれる美術工芸的な染付でもなく。それは、もっと大らかな手わざに対する再評価なのかな、と。
「一点一点筆の運びが異なる」というような人間くささが、ある種の郷愁として、ストレスフルな社会を生きる現代人の心を慰撫するようになっているのだと思います。

数年前、九州の旅を続けていたとき、そんな大らかな風合いの染付を制作する工房に佐賀県有田町で出会いました。
そのお話については、また次回。