家具作家 般若芳行 Part3

家具作家 般若芳行

 もの作りは基本とても地味な作業だ。それに徹しながらもそこに自分なりの意味を見出せるかどうかは偏に作家の資質によると思う。そのプロセスの中で対話出来ているかどうか、その有無は作品の質、出来栄えにも現れるだろう。人が作ったものを時間やお金に換算するという考えが隅々まで行き渡るのも恐らく近代の特徴だ。時給、という考え。一時間働くとそれがお金に置き換わり、それは多いほど良いとされる。労働を効率的思考で捉えることも現代の病の一つだろう。本来、もの作りとはとても非効率的なもの、つまり一見の無駄が多いのだ。お金を払う人は完成品しか見ないので、その途上で捨てられた無駄を感じ取れる人は少ない。最終形態に辿り着くまでに通ったであろう道を想像する知の働き。ものを買うお金を払うとはそのプロセスに対しての支払いなのだ。

家具作家 般若芳行

 さて無駄口はこの辺までにして般若さんの話しに入ろう。彼は大学時代にガウディの建築を見るためにスペインを旅行したのだが、旅の途中で泊まった宿の女主人に偶然、そこからアルタミラの洞窟が近いことを教えられ、あの有名なアルタミラの洞窟画を見た。スペイン人夫婦と彼と三人で洞窟内の岩に毛布が敷いてあるところに寝そべるようにして、まるで夜空の星でも見るかのように暗いなか上を見上げて、それを見た。
 「ただもう、凄く感動して、表現力って言うか、何にもない時代にこんなのちゃんと描けたんだな、凄いデッサン力で、牛が本当に走り出しそうな感じで、感動でポーっとなっちゃって。人間って変わらないんだな。小手先じゃない表現力がとても純粋に見えて。その絵を描いた動機として祈りみたいなものがあったとしても、描きたい、っていうのが先ずあったんだろうな、と思って。欲求がとてもストレートでそれがまたとても純粋で、今のぼくたちには余りないような気がして」
 彼は大学三年を終えた後休学してスペインを四ヶ月旅した。もう既に天童木工に入ることは心に決めていたのだが、スペイン旅行のテーマとしてガウディの建築を選んだ。マドリードを起点にそこから北に上がりバスでサン・セバスチャンから反時計回りにずっと外側を周って最後はバルセロナを訪れた。
 「サグラダ・ファミリアにしてもカサ・ミラにしても(ガウディ建築は)一見自由度が高いように見えるじゃないですか、でも実際に見てるとちゃんと計算されてるのが分かって、構造がしっかりしてないとこういうのは出来ないんだな、と。ぼく今椅子の設計するときに、基本的に外せない角度とか強度ってあるので、そこをちゃんとやった上でディテールをどうするのか、という考えはその辺から来てる気がします。天童木工に入ってからなんですけど、スエーデンのブルーノ・マットソンというデザイナーがいて、その人のデザインした物をマットソン・シリーズとして天童木工で当時作ってて、その人がぼくが会社に入る大分前に天童木工に来てデッサンとかした後に講演をして、その時の手書きの講演録が(会社に)残ってて、それに最後のほうに書いてあったのが、(椅子の座り)心地良さは一つの芸術である、椅子の製作にはそのような芸術性が込められていなければならない、という言葉なんです。ぼくの中にも薄っぺらいかもしれないけれど、椅子屋のプライドみたいなものが何処かにありますね。箱物って技術の集約でもあるし、工業的に作っていける。いくら自分で手でやっててもそれ以上に出来る機械が一杯あるので。でも椅子は多分そうはいかない、こういう椅子を作るときは人の手をフルに使わないとこんな曲線も絶対出来ないし、その作ってるときの魅力というのはこの手からじゃないと出て来ない。自分が仕事をやっていく上での活路は恐らくそこにしかない。座る人に(自分の)手を感じて欲しいな、って」

家具作家 般若芳行

 最後に木が時間を経ながら変化していくとこの魅力について訊いてみた。石や鉄に比べると木の経年変化は未だ人の一生の中で見え易い。
 「自分たちが感じられる時間の枠の中でちゃんと変わってくれるから凄く有り難いな。木には包容力があって、それが有り難いな、と思います」
 この文章を書くのに彼との会話を聞き返して改めて思ったのは、彼の作家としてのバランス感覚の良さだろうか。もの作りをする人が多様な要素を抱え込んで作家として何処ら辺りに立ってものを作っていくのか。そのポジショニング、位置取り。この移ろい易い拝金的消費社会の中で流行、権威などに流されずに自分の表現したいことをどう続けながら生活を組み立てていくのか。ステレオタイプにも与せず、孤立もせず群れもせず、その何処でもない丁度良いところに自分の場所を見つけられる人。彼の姿勢には無駄な硬さ、気負いがない。これはものを作る人としてとても大切だと思う。ただ、この独特のポジションを確保出来る人はどの世界でもそう多くはいないというのが現実だ。皆何かに与して媚びないと食えないということ。一見いくらオシャレに見える世界でもそういった村社会的力学の及ばないところに立てる人は少ないと思う。ぼくたちが生きるこの世界はディープなムラなのだ。