「かが、のと」

 石川県には加賀と能登の二つがある。その形を左右逆の「L」字だとすると、横の線が加賀、縦線の海に突き出た半島部が能登になる。ぼくの勝手な解釈は、加賀は近代的、弥生的洗練の世界で、能登は前近代的、縄文的エネルギーに満ちた異次元世界だ。色に喩えるなら、金沢を出発して能登へと進んで行くと、深緑の整った景色が徐々に赤褐色の原風景に呑まれながら変化していく感覚だ。誤解されるのを承知で言えば、能登半島の主役は人間ではなく、人間以外の何者かであり、その人間が築いてきた「近代」の綻びが能登にはまだ所々に残っていて、人間は実は傍の存在であり、何か目に見えない者たちと共にそこに棲んでいる。その前近代的エネルギー満ちた能登半島の下に加賀の洗練があり、赤褐色と深緑の二つの色が石川の「色」だ。この二つの隣り合う地域の対照が石川の魅力なのだ。
 初夏の頃、車で金沢から能登半島に向かって走り出す。その入り口の半島の付け根辺りで青緑色の鮮やかな水田風景が一面にすっと拡がる。いつもそこまで来ると、加賀から能登に向かうぼくの肩から少しずつ何かが抜け落ち軽くなっていくのが分かる。「近代」から「前近代」に向かって車を飛ばしているぼくの眼に映る水田の緑は何時も必ず鮮明に美しい。自分の中で何か溜まった澱みたいなものがリセットされ消えていく感覚だ。
 金沢にないものを能登に貰いに行く。能登にエネルギーを補充しに行く。この二つの場の往来の中でぼくは何とかバランスを取って暮らしている。イギリスに仕入れの仕事で滞在しているときに、ロンドンに疲れると特急電車に四時間半揺られてエジンバラに行く。エジンバラの駅に降りホームの人混みの中を歩きながら、その土地の荒々しいエネルギーの強さを肌で感じる。実際に足のほうからエネルギーが流れ込むのが分かるくらいだ。ぼくは金沢にいると能登が恋しくなり、ロンドンにいるとエジンバラなしでは酸欠状態になる。その振り子運動のような行ったり来たりをこの二十数年繰り返している。
 相反する二つのものを抱え込んだ土地。それがこの石川の深さ面白さだと思う。この連載のタイトルは「人と風景のかたち」となっているが、人もまた風景であり、人に会いに行くことも風景を見に行くのと同じなのだと思う。これから石川の人と風景について多少偏るかもしれないが独自の切り口で語っていきたいと思う。

 

能登島大橋の夕日
能登島大橋の夕日