男の着物ばなし

涼やかな大和がすりを纏って

毎年、避暑のためにひと月余りを過ごすという大阪・観心寺にて。
涼やかな大和がすりを纏って。(写真=垂見孔士)

 

男の着物ばなし

「衣食住」という言葉がありますが、和を楽しむのなら、
まず個人が身に纏う着物から考えてみませんか。
今日でも、日常のほとんどを着物で過ごしている庭師の古川三盛さんに、
その着物のあれこれを綴っていただきました。

 

素晴らしき生活文化、着物

 
仕事のとき以外は、ほとんど着物で過ごしている私だが、男の着物姿は珍しいらしく、「良いものですなあ、よく似合って……」などと時々、通りすがりの人から声を掛けられる。しかし、そうした自分自身の姿を見ることは、めったになく、たまにデパートなど思わぬ場所で、鏡に映ったりすると「これが自分?」と、周囲とのあまりの隔たりに驚き、その場から素知らぬ顔で逃げ去っている。

着物に興味があり、大島や結城など、そこそこの品を揃えている男性は数いるが、周りにその姿が見られないため、気恥ずかしさが先立つらしい。気恥ずかしいから着ない。着ないから着慣れない。本当は着たいと思っていても、こうした内向きの理由が、少なくとも彼らから、着物を遠ざけているようだ。

30年ほど前までは、電車やバスの1車輌に一人や二人、着物姿の男性は捜せた。それが今日私一人のことが多く、駅のホームにもバス停にも、デパートにもいない。いわんや旅先においては……。

それに比べ、女性の着物姿はまだまだ見かけられる。ただし、そのほとんどが晴着か、昔風に言う余所行姿であって、決して普段着ではない。風俗習慣に限らず、すべての事象が男性の手を離れると、ゆっくりではあるが衰退の兆しを見せる。現代の文化全般、社会の風潮もその多くに女性化が感じられる。女性化はある意味、花束のようなもの。優美で豪華には束ねられても、根を持たず、新しい花を咲かせることは期待できない。

着物文化もいつの頃からか、このような傾向を見せ始めた。女性の贅沢な高級品ばかりが流通し、普段着は全くといってよいほど洋装に替わった。男性に至っては言うまでもなく、男性の普段着こそが着物文化の下支えであることに気づいてほしい。

消えゆく風俗を留めようと思っても、それは懐古趣味、道楽と思われて仕方なく、限られた好事家にどうこうできるものではあるまいが。だからこそ風俗なのだが、この国の風土に根付き、受け継がれてきた衣文化、それに伴った多くの技術や意識、想いが、あれよあれよと消えてゆくのは忍びない。せめてこの業界と係わりのある人たちは、日常に着物を着、それを習いにするくらいのことは、務めとしてあってよいはず。その務めさえあれば、ささやかであれ、風俗としての着物の息はまだまだ保たれよう。
 

布地の寿命の尽きるまでの再々利用。
もったいないを根底にした、見事な生活文化。

 
反物という、幅の定まった布地をそれぞれの長さに裁断するだけで、子どもから大人までの衣服を仕立ててしまう技法。それを洗い張りという技術で、もとの布地に返し、再生させる知恵。つまりは合理的な仕立て直しが幾度でも可能なため、形見分けは有り難がられたし、誰の物かもわからない古着ですら、戸惑いなく自分の物にしてしまえた。さらにその布地の寿命が尽きてしまうまでの再々利用。座布団から下着、防寒着、袋物、おむつ、雑布、はたき……。そして最後はかまどで灰にされるわけだが、その灰も火鉢にゆくか肥料となって土に還されるか。何と見事な生活文化。〝もったいない〞を根底にした日本文化そのものの豊かさと言えよう。
 

古い街並の息づき

 
ある街並保存に関係する人たちの集まりで、活性化の意見を求められたことがあった。私は街並という風物はあっても、それと共にあってほしい、生きた風俗の見られない物足りなさを述べた。その風俗を今日の風俗営業と、いかばかりか誤解されかけて、滑稽だったが、立派な建物は保存されているのに、そこで暮らす人たちのその場の風俗、その場に応じたかつての衣生活のなさに、息づきが感じられないでいた。せめて男性が着物で日常を過ごすくらいのことが当たりまえであれば、街は一変する。少し前までは皆そうだったのだから、さほどとは思えないのだが。いざとなるとやはり当人たちは、気恥ずかしさが先立つらしい。

古い構えを残した和菓子店や茶舗、呉服店はもちろん薬屋など、そこで働く人たちが、一昔前のように着物姿であれば、それだけで街全体がどれほど趣深いものになるか。しかしそうした情趣は、残念ながら祭りや正月といったイベントの時だけで、普段から気を巡らしている地域と、未だ行き会ったことがない。

着物は裾さばきや衿元のあしらい、帯の結び、など今日的に多少面倒で実労働には不向きではあろうが、それが趣であり、店番や街中を歩くくらいなら支障はない。古い日本映画を見れば、当然ながら何でもない場面で、着物姿の男性は出てくる。二代目の中村鴈治郎などまさに着物そのもの、少し前のめりで、ちょこちょこ歩く足の運びはもちろん、背筋から首筋に至るまで、着物と見事に一体化している。あのような着物しか着たことのない人は、昔は普通にいたわけで、それが今日なお現実であったとすれば、古い街並の情緒は計り知れないのだが。
 


 

日本人が肌身を通して
感じたもの

 
着物は、衽と称する前合わせを重ねながらの組み立て式で、そのままではおおむね平な布地に近く、身に纏い、帯を締めて初めて衣装となる。立体裁断された洋服なら、堅い素材のマネキンに着せても様になるが、平面仕立ての着物は、そうはゆかない。弾力のある生きた肢体が下地にあってこそ帯は締まるし、胸元の柔らかさが表情となる。着こなそうと思えば何回も袖を通し、着慣れること以外にあるまいが、ただ一つ言えるのは、下着を1枚でも、きちっと身に着けること。もちろんその下着は襦袢と呼ばれる着物専用のもの。

着物は同じ形体のものを、下着も含め、何枚か重ねて用いるのが普通で、そのため背中は一重、前合わせをする胸元は二重となる。下着としてさらに重ねれば、前合わせは4枚、6枚。それが単衣でなく袷あわせであればさらに2倍の枚数となる。

前合わせの重なりが多くなるほど胸元はゆったりする。着こなしの骨は、着物全体の弛みをその胸元に集め、ゆったりさせることにある。そして、その弛みが気にならなくなれば、着慣れたと言えよう。

どんなに上質の着物でも、襦袢なしでシャツ1枚、あるいは素肌にべろんと着ただけでは、袖が軽いと言われ零落感が漂う。着こなしは千差万別。格式張れば、立派なお殿様にも、裕福な檀那衆にもなれるが、よれよれに仕方なく身に纏えば、見窄ぼらしい乞食にだってなってしまえる。

暑さ寒さ、喜怒哀楽を身に感じつつ、生涯何千回となく着たり脱いだりを繰り返す衣生活。その衣生活も、着物しかなかった時代があり、その着物という形体にいやおうなく身を任せた日本人。そうした時代の日本人は、肌身に何を感じ生きてきたか。袖の摺り合えた喜び。袂を分かった哀しみ。仕方ない懐の痛みが、袖口を抜けてゆく風のように、私には切なく忍ばれる。このような豊潤な衣文化を、日本人は何故に捨ててしまおうとしているのか。
 
 
着物図解
 
 
余談になるが、着物好きの人は、脱衣の時の快い話をよくする。帯と何本かの紐さえ解けば、肌着も何も一まとめで脱げてしまえるからだ。もちろんその時の肌着は、着物用の肌襦袢でなくてはならないし、さらに女性はおこし、男性はふどし……。

子どもの時、母親と一緒に風呂に入る時など、母親は一気に脱いでしまえて、何と楽なんだろう、と思ったものだ。子どもの私といえば、服のボタンを一つずつ外し、ズボンを下ろす。さらにはTシャツを、首をすぼめながら脱いだりで、面倒だった。今は無意識にかつての母親がやっていたことを、私もやっているのだが、そのためにはやはりTシャツなどといった洋装の肌着であってはならない。晒木綿の肌襦袢。いつの頃からか、着物の時は肌襦袢にふどしは私にとって離せないものになっていた。そうでなければ着物を着たような気がしない。

今日、それなりに幸せな男性は数限りないとは思うが、妻に一針一針、肌襦袢とふどしが縫ってもらえる幸せな男は、私を含めて少なかろう。

 

古川三盛(ふるかわ・みつもり)
作庭家。1943年福岡県生まれ。鹿児島大学卒業。北九州で修業後、京都で森蘊氏に師事。70年に独立。観心寺、延命寺(大阪・河内長野)、天上寺(兵庫・神戸)、法楽寺、全興寺(大阪)、矢田寺・北僧坊・大坊門(奈良・大和郡山)、中宮寺(奈良・斑鳩)、観音寺(京都・福知山)、寂庵(京都)、金峯山寺(奈良・吉野)、新大佛寺(三重・伊賀)、浄教寺(奈良)など、多くの寺社や個人宅とかかわる。著書に『庭の憂』(善本社)がある。

 

チルチンびと 75号掲載

 

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。

Optionally add an image (JPEG only)