VOL.6で紹介した「美濃市ふくべの森入会林野再生モデル事業」の発端は、分収造林契約の事実上の経営破綻と、契約に伴う大面積一斉皆伐の回避にありました。分収造林契約とは、森林の所有者と森林の管理者が異なる造林地で、森林管理者が一定の契約期間に造林・保育を行い契約の満了時に、木を伐採してその収益を土地所有者と管理者で分け合う契約のことを言います。
一般に土地所有者は、市町村や地域の共有林が契約者になることが多く、国(管理者が国の分収造林を官行造林という)や県の森林公社やかつての農林水産省管轄の特殊法人であった森林開発公団(のちに緑資源公団から緑資源機構となり現在は廃止され事業の存続を農林水産省所管の独立行政法人森林総合研究所の一部局である森林農地整備センターが引き継いでいる。)などの行政機関やそれに準ずる組織が森林の管理者となり契約が結ばれるケースがほとんどです。
現在、この分収造林契約地の多くは、伐採による収益が育林経費を満たせずに赤字経営となり多くの契約地が事実上経営破綻しています。また、100ヘクタールを超す大面積の契約地も多く、契約を履行すれば大面積の森林の木を一時期に全て伐採することになり、土砂災害等の発生も懸念されています。
この分収造林事業は、明治以前から行われていましたが、昭和30年代に全国的に増加しています。昭和30年代は、戦後の復興期から高度経済成長に移行する時期で、山は伐採によるハゲ山が多く存在し、プロパンガスの普及による燃料革命により薪炭林(薪や炭を生産するための広葉樹の林)を伐採して、スギ・ヒノキの針葉樹の植林を奨励した国の拡大造林政策の時期と重なります。しかしながら、森林の所有者は森林を造成するための資金力が充分にありませんでしたから、森林の所有と管理を分離することにより所有者の資金負担なしで森林を造成することが可能になったことは、分収造林制度のメリットと言えます。分収造林制度には問題も多くありますが、この制度によって戦後の伐採跡地の造林が飛躍的に進んだことも事実です。
私たちが入会林野の再生に取り組む岐阜県美濃市の片知地区の分収造林契約は、大正10年にまで遡ります。地元の歴史をよく知る方に話を聞くと、大正8年に片知川流域で未曾有の大洪水が発生し、人命を失うほか、田畑や家屋の流出などの大災害が発生したそうです。当時、村には災害復旧資金の余裕がなく、その多くが個人負担及び片知区民の長期による奉仕によって行われていました。村費をもって災害復旧に当たることができない事実を深く憂慮した村長は、片知区民を救う道は官行造林(国との分収造林契約)にあると考えました。植林による治山治水はもとより、水源涵養林として異常出水を防止し、将来に財を蓄えて公益の道を開き、片知区民の民生安定と発展の基礎になることを考えて営林署(国)と契約を交わしました。
この最初の契約は昭和30年代に契約が満了し、所有者である地元も分収益を得て、分収造林契約の第一期はその役割を果たしました。現在、二期目の満了期を迎えていますが、前述のようにその契約は事実上経営破綻し、一部の契約を期間延長しながら地元で地上権を買い戻すことによって、かつての入会林野の再生をはかろうとしているのです。
この片知地区では500ヘクタール(1ヘクタール=100m×100m)以上の契約地が契約の終期を迎えています。これだけの大きな面積の森林が契約上、同時期に伐採されることと、伐採しても十分な収益が得られず再造林の費用すら賄えない可能性があること、契約期間中は地上権(立木の所有権)は管理者にあるために、資金不足で間伐等の保育が十分になされないまま放置される森林も多く存在する・・・など多くの問題を抱えています。
そんな中で、契約を延長するだけでは問題の先送りにすぎない、後世に地域の共有林を引き継ぐために今できることをしようと地域の人達が動き始めました。次回から、地域の人達の取り組みを交えて地域の森林が今抱えている問題を現場から紹介していきます。