ネプタの記憶

5月末に播種したオクラが最初の花をつける7月の終わりは、一年のなかで最も好きな季節だ。この時期、ぼくの故郷津軽では、ネプタ祭りが始まる最終の準備段階で、市町村の至る所で笛の練習する音色や太鼓の音が聴こえる。ぼくには大切なネプタの記憶がある。

1984年の夏。ある病院がネプタ愛好会を結成して創ったネプタは、当時としては画期的なものだった。ネプタ本体が電飾化され、巨大化にともなって動力付きが主流だったなかで、唯一、昔ながらの蝋燭の灯りと、担ぎと曳きにこだわり軽量化小型化したこだわりの一台。

絵師は筋ジストロフィーを患う患者だった。企画制作したのがぼくの父で、やはり幼少の頃からネプタを自らの手で制作していた。どこで聞き知ったのか、ネプタ絵を描くのがすきな難病患者の人物をみつけて、絵師に抜擢した。ぼくも父の影響で絵を描くのが好きで、機会があればその絵師の描く姿をよく見学しにいった。絵師は自由に身体を使えない。常に彼の母親や看護士が傍らにいて、絵の具の仕込みや絵筆を走らせる身体サポートをしていた。

ぼくは、彼の画が完成する過程を遠くでいつも見ていたから、全てのパーツの絵が張り終わってお披露目した時の車椅子に乗った彼の満足げな顔は今でもわすれない。子どもながらにぼくが感じた、身体の自由が効かない難病の彼が描いたネプタ絵は、健常者のプロが描くそれとは違い構図や筆致に迫力が欠けるものだったけれど、彼の苦闘を知っているぼくにとってはいま思い返しても最高のネプタだった。そして、母と妹と3人で曵きにいった。彼のネプタを誇らしく思うあまり、常に振り返っては蝋燭の灯りで朧に浮かび上がった鏡絵を眺め、脚がもつれては母に叱られた。残念ながら、その季節の最高賞である県知事賞をとれず、ぼくは何故とれなかったのか母に何遍も問いただし、父は父で、ある意味参加賞のような「奨励賞」って書かれた賞状を巡行中のその場で破りすてていた。

絵師は、年が明けて次のネプタに着手する前にこの世を去った。しばらくして、父に連れられて亡くなった彼の実家へお悔やみにいった。絵師の母親は、「生ぎでるうぢに、ネンプタ絵、描げでいがった、いがった、満足だべぉんさぁ」と言っていた。

彼は永いことぼくの心のなかに住み続けていて、時々、身を支えられながら絵を描いている姿を思い出す。もし絵師に抜擢されなかったら、難病だった彼はどんな人生で終ったのだろう。限りある人生であんな燃えきれるような時間を過ごしたろうか。

 

せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です

宮澤賢治『心象スケッチ 春と修羅 序』

 

8月。早朝、暑くなる前に圃場にでて、昨日の夕立で湿り気が残った空気を朝飯がわりに吸い込む。一瞬、賢治の言葉が身体を通り抜けたような気がした。

旺盛に成るオクラの果実をはさみでパチパチしながら、ふと思った。青い照明……きっとぼくはあの時、ネプタの蝋燭の灯りじゃなくて、彼の魂に照らされていたのかもしれない……。

彼のように津軽の人間として自分がなにを表現できるかやってみたくて、でも目標を定めきれず、あげく20数年間、ぼくは根無し草のような生活をしてしまった。それでも、なんとか大原にたどりつき、農業という人生の落としどころをみつけた。そして人々の記憶からもはや忘却されてしまいそうな彼の人生の断片をこんな形で書いている。オクラの果実をパチパチ切り落とすたびに、大きな葉が風もないのにサワサワと揺さぶってくる。人の一生は短い、だから愛おしい。

 

僕の野菜