フィールドワーク

ぼくのフィールドワークは田畑と裏山を観察し、散策するだけ。シンプルだけど、順路には五感をくすぐる要素をたくさん盛り込んでいる。身体を意識して自然環境に接すると、普段いかに自分が無意識のうちに感覚を閉ざして生活しているかがよくわかる。

まず、山の稜線を手がかりにじっくり目を慣らす。やがて、まるでパッチワークのようになった人の手が加えられた山肌の痕跡が見えるようになる。それからが、ぼくが耕す畑と田んぼの観察だ。高低差約30m程度の棚田を谷間から落ちてくる風の流れや、圃場によって違う気温の差を感じながら、最上部の「御所田」を目指す。途中、土を握り、匂いを嗅ぐ。野菜を摘んで齧る。全ての圃場に巡らされた水路を伝う水の流れに耳を傾けつつ、傾斜があって舗装もされていない農道をしっかり呼吸し、足裏を意識してゆっくり散策する。

野菜

圃場の環境が、思った以上に複雑で繊細なことを五感で感じとったら、農業用水を取水するための小さな堰がある裏山まで足を延ばす。ろくに管理もされず、砂礫が露わになってしまった杉林の経緯をぼくは話す。そして、なぜタンニン鉄を使っているのか、知人の漁師がおこなっている森の活動など紹介しながら、やがて沢へとたどりつく。手を浸して水温を確認し、今年は琵琶湖の深呼吸があるかないか皆で予想して、帰途は惟喬親王の御陵を仰いで、再び「御所田」から一枚一枚手の行き届いた棚田の風景と、鄙びた大原の里を一望する。

ウエンダの美しい景色を活かして、心身を解きほぐし感覚を解放する。もともと備わった環境に自分なりの視点や解釈を差し向けることで、参加した人のいつもの視界を少し変化させるのがぼくのフィールドワークで、これも農の一環だと考えている。だから、「ここにくる前と参加した後では、景色が全く違って広く見える」とか、「毎日、何気なく食べていた新谷さんの野菜がすごく特別に思えてきた」「農と環境の考え方が変わった」という感想は素直に嬉しい。

春、ある事情を抱えた家族からぼくの圃場を見学したいというメッセージがあった。親としては、植物に触れることで子どもの心身をリフレッシュさせてあげたいというところなのだろうが、ぼくもハンデのある子の親として思うのは、農を体験すべきなのはむしろ親の方かもしれないということ。子の生を案ずるが故の言いようのない不安や周囲へのストレスは、心身の感覚にも自覚していないところで少なからず影響している。時々、妻との会話でもその話題になる。子どもはしっかり親を観ている。出来ることならば、自分の命が尽きるまで屈託のない姿を見せていたいのが親心だ。

だから思う。この家族が一緒にフィールドワークに参加して少しでも心身が解きほぐれるのならば、いつもと違う穏やかで新鮮な感覚で子どもに接することが出来るきっかけになるのであれば、農家としてこれ以上の仕事はないかもしれない。土を育てるように、数年かけて練り上げた田畑と裏山を巡るこの時間は、ぼくにとって野菜やイネを育てる時間と同じくらい大切なものなのだと。百姓って、こういうことかもしれない。