「ウエンダ」の由来

ウエンダは、京都大原の東斜面にある棚田の呼称。「上ん田」と書くのか、それとも「植ん田」とあてるのか、地場の人間の間でも判然としない。地図上には存在しない口承で伝わる地名だ。いわゆる扇状地で、最上部には惟喬親王の御墓がある。この地で、専業農家としては僅かな農地で、ぼくは野菜と米を栽培している。そして農作業の合間をぬって、ほぼ毎週のように宅配先のお客と連れ立ち、ウエンダの圃場と背後に広がる杉と檜の植林の山と沢を観察しながら、森のもたらすミネラルの循環に着目した環境改善を問うフィールドワークを行っている。

耕地と向き合い続けていると、時折意外な発見がある。「ウエンダ」。じつは、この口承で伝わる地名以外にも、極限られた農業者だけに伝わる超限定的な地名があることが最近になって村の古老から知らされた。ウエンダにたどり着いてぼくは10年。これは驚きだった。

棚田の最上部、惟喬親王の御墓のたもとにある一筆2反ほどの圃場が「ごしょだ」。その一段下に、ぼくが耕す幅6m奥行き70mの圃場「ばんばだ」がある。「 ごしょだ 」より標高低く展開する棚田の北端に「けのぼう」。勘のよい人だったらすぐ判る。広大な「御所田」、馬を侍らす細長い「馬場田」、周辺には日常の皇子の住居か僧房かを意味する「ケの坊」。ぼくは御所の遺構で土を耕しているわけだ。

 

ウエンダの棚田

 

農を生業にするなんて夢にも思っていなかった。たまたま前職の縁で家庭菜園を始めたのがきっかけで、使われなくなった畑を借りては耕作地を増やしながら、四十を過ぎて人生の転換を図った。農家になれたのは、自分の収穫物云々よりウエンダから一望する大原の景色に惚れて借りた圃場の草刈りを一生懸命やっていたからかもしれない。最初は口を訊いてくれなかった先輩農家も、草刈りをする自分の姿を見てはいろいろアドバイスをくれるようになった。そのアドバイスが、今でも自分の訓言で「棚田は預かりもの」「将来、使う人のために余計なものいれるな」「ウエンダから離れるな」だった。かつては止んごとなき御方がお住まいだった場所。しかし現在の棚田は農業経営にはとても厳しい。それでもどうにか家族4人を養っていけている自分の姿を鑑みると、なんとなく惟喬親王に「お前、この地を守れ。」と後押しされているようで心の奥底から不思議な力が湧いてくる。

土地を預かる。幾世代にわたって人の営みを支えてきた耕地を維持・管理してゆく世代の順番。どのような縁なのか知らないが、津軽生まれのぼくにこの地を預かる順番がどうやら廻ってきたらしい。こんな心持ちだ。今日もぼくはウエンダで土を耕し、種を撒き、農作業の合間をぬっては圃場や裏山を観察する。もう誰も手を入れなくなった杉と檜が植林された谷をいつものように沢の水は海の方へと流れる。それらを見つめながら、ここで農業すること、生きていくことの必然を感じとっている。

 

※惟喬親王…844-897 平安時代前期 文徳天皇の第1皇子。母は紀名虎の娘静子。藤原明子に惟仁親王(清和天皇)が生まれたため父天皇は藤原氏を憚り皇太子に立てられなかった。大宰帥、上野大守を歴任し、のちに出家して比叡山麓の小野に隠棲する。