ベニシアと正 2 -青春、インド、そして今-
11/19

歌声を手に入れる1964年、14歳となった私は、ロンドンから40分ほどのアスコットの近くにあるヒースフィールドという寄宿学校の最終学年だった。この女子校は母の母校でもあり、アジアの王女様やハリウッドスターの娘など、海外からの生徒も多く在籍する富裕層向けのパブリックスクールだ。  前年に実父デレクが心臓発作で急死し、小さい頃から慕っていた乳母、ディンディンも我が家を去り、私は悲しみに打ちのめされていた。人生に何の意味があるのか、自分は何者なのかと、自問を続けていた。ところが、学校の聖歌隊で歌い始めたことで、私の中で何かが変わったのである。 リアムズという体育担当の若い先生がいた。やさしくて思いやりのある人で、私の話をよく聞いてくれた。その先生から学校の聖歌隊のオーディションを受けてみないかと誘われて、私は音楽の先生の前で『ラベンダーは青い』を歌った。部屋に戻ったとき、歌っている間は心の痛みを感じなかったことに私は気がついた。そして父が私に語りかける声が聞こえたのだ。 「ベニシア、何か美しいことをして生きていきなさい。いつも見守っているからね」  数日後の朝礼で、聖歌隊オーディションの結果が発表された。私の学年からは、ターシャ、ダイアナ、そして私の三人が選ばれた。みんなが大きな拍手をしてくれた。拍手がやむと、校長先生は笑顔で続けた。  ヒースフィールドには、ミス・ウィ「今年のマタイのソロを歌うのは、ベニシア・スタンリー・スミスです」   クラシック聖歌の傑作といわれるマタイ受難曲は、マタイ福音書26章と27章にヨハン・セバスチャン・バッハがメロディをつけた、キリスト教オラトリオである。私は信じられない気持ちだった。  父の死というショッキングな出来事から立ち直れたのは、音楽のおかげだった。私は毎朝、学校で歌の個人レッスンを受け、ギターを練習していたターシャとダイアナと仲良くなった。やがて三人で「ザ・スイート・ドリーム」というフォークグループを結成し、夏休みの間、チャリティ行事やコンサートで歌うようになった。私は悲しみを忘れて輝ける場所をみつけたのだ。

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る