田中敏溥大全 -人と仕事- 建築家座談会「我ら新潟人~新潟のいい家を考える~」
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13ときにはお酒を用意します。雪見酒をするのもいいよなあ。我が故郷の村上には美味しい肴もありますよ。有名なのは鮭。村上が鮭で有名なのはたくさん獲れるということではなくて、世界で初めて鮭が生まれた川に戻る習性に気づいて、増殖に成功した人がいるからなんですよ。「村上藩の鮭担当係長さん」と私が勝手に呼んでいる青あおと砥武ぶへいじ平冶という人が、種川という川を人工的につくって放流と自然ふ化を繰り返したのです。そうして得た利益で村上藩を立て直し、さらに、優秀な子どものために奨学金制度もつくったんですよ。水澤:新潟県は全体で鮭文化ですよ。大晦日は鮭を必ず焼いて食べ、お雑煮の中にも入れます。古泉:大晦日に鮭…… うちの雑煮は鶏肉でしたね(笑)。田中:新潟でも違うんだなあ(笑)。村上では、鮭のお腹の一部を残した「止め腹」という独特な切り方で二つ割りにします。武士が増やした鮭だから、〝切腹〟はよろしくなかったのでしょうね(笑)。——ところで、皆さんが生まれ育った家はどんな家でしたか?田中:私の実家は、親父が茶業協同組合の事務所だったものを買い取って改装した建物。巴瓦には「茶」と書いてあって、下見板張りでペンキが塗ってあった。ちなみに、村上市は北限の茶所と言われています。屋根は通りに面したところは瓦だけど、そこ以外はこの地方に多い石置き屋根。木こっぱ端葺きという薄い2〜3ミリの薄い板で葺いたもののことを「とんとん葺き」と呼びますが、その上に漬物石のような石を載せていた。鳥の巣を見つけて屋根に上って取りに行ったら、足を踏み外して穴を開けて怒られたこともありましたね(笑)。古泉:うちの物置も石置き屋根でしたね。私の子どもの頃にはもう古い建物はそんなに残ってなかったんですが、母の実家は当時でもまだ茅葺きでした。水澤:うちの近所には茅葺きの家が普通に残っていました。土間があって、家で牛やヤギといった家畜を飼っていましたね。それと、冬の家内仕事として蚕をほとんどの家で飼っていた。冬になると座敷の畳をあげて蚕棚をつくっていたのを覚えています。田中:蚕は桑の葉を食べるんだけど、それがまたものすごい食欲だったよ。そして子どもらは桑の実をとって食べる。甘酸っぱくておいしかったなあ。——新潟と言えば、豪雪地帯というのも一般的なイメージです。皆さんの雪の思い出と言えば?水澤:僕が小さい頃は今あるような除雪機械が今ほど十分ではなく、どんどん雪が積もっていくんですよ。度胸試しで学校の2階から雪の中に飛び降りたこともありましたね。屋根の雪がどんどん落ちて、何メートルにもなるんです。田中:水澤さんよりもっと古い私の時代は、雪がだんだん踏み固められて氷のようになった道路でスケートをして遊びましたね。当時は車もめったに通らなかったですから。近所の鍛冶屋さんが、1センチくらいの厚みの刃を長靴にゴムバンドで付けてくれて。長靴を使う前は下駄にも付けていたね。水澤:まあ、いちばん思い出すのは雪が融ける時期ですよ。うれしいしほっとしますよ。3月の終わり頃になるとなんだかウキウキしてくる。田中:冬が暗い分、それだけ春が待ち遠しい。新潟の春はいいですよ。サラサラッと雪融けの小川が流れて、キラキラしてね。本当に映画のような風景が広がる。これを見られるから、新潟の人は頑張れる。明けない夜はないからね。——懐かしい思い出ですね。そういえば、「真面目で勤勉」というのが、新潟の県民性と言われていますね。その他、いわゆる「じょんのび」という方言で表される、穏やかで温かい人柄、ほんわかとした性格……。田中:「じょんのび」というのは下越では使わない。長岡で使われるのかな?水澤:そうですね。でも結構古い言葉で、今の人たちはあまり使わないですよ。正確にどういう意味かは僕もあんまり自信がない(笑)。古泉:のびのびしているとかね。おおらかな、とか。水澤:気持ちいいな〜というときにも使っていたと思います。田中:やっぱり真面目で勤勉というのは雪の中だからじゃないのかな。水澤:私の家から小学校まで3キロあって、車が通る大きな道だと子どもたちは危ないので1本外れた通学路を歩きました。行きは集団登校だけど帰り道はバラバラ。車も人も通らない道右/尾を上にして干すのも村上流。(提供/新潟観光ナビ) 左/村上市鮭公園に建つ青砥武平治像。(提供/村上市商工観光課)塩鮭が入った新潟の雑煮。(提供/全日本雑煮大図鑑)昭和38年の豪雪の様子。屋根から下ろした雪が2階の屋根まで届く。(提供/ジオテクサービス㈱)

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