田中敏溥大全 -人と仕事-
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10 田中さんは「いい家とは、人とまちと地球にやさしい家」だと言う。人の健康や安全が考えられていて、隣やまちへの気遣いがあり、省資源・省エネルギーで長く住み続けられること――この三つを備えたいい家ができれば、「いい関係の向こう三軒両隣」ができる、と。そんな田中さんの家づくりを語る上で欠かせないのが、故郷・村上での暮らしだ。 新潟は冬は雪が積もり、夏は暑く蒸し暑い気候で知られるが、日本海に面する村上の冬はことのほか厳しい。「シベリアからの風で、雪が横から降ってくるように感じるほど。でも、冬が厳しい反面、新潟の春はいい。雪融けとともに植物が芽吹く光景は、映画にしたいような美しさ。新潟の人はそれを見て“明けない夜はない”って思う。だから、新潟の人は頑張れる」。こうした新潟の気候風土が、「人にやさしい家」「地球にやさしい家」という考え方へとつながっていったのだろう。 そして「まちにやさしい家」という考えの源には、18歳までの12年間を過ごした「家」によるところが大きい。田中さんは4歳から12歳まで、そして高校3年間を、母親の実家である造り酒屋に引き取られて暮らした。「この造り酒屋は、表通りに面した町家造り。コンクリート土間の通り庭があって、表通りから裏庭まで抜けている。近所の人が通り土間を行き来して、普通の家の縁側のような感覚で、囲炉裏のある板の間に腰掛けて話していく」。 城下町として栄えた村上は、三み面おもて川を遡上する鮭のまちとして知られ、独自の文化が息づくまちでもある。「祭りになると、建具をすべて引き込んで、座敷で宴会をしながら、御神輿を待つ。どの家でも家紋が書いてある簾をあげて、通りかかる人を座敷に上げてもてなす。そんな、道と家の中が一体になる光景がまちじゅうで見られた」。「まちにやさしい家」には、こうした幼少期の経験が色濃く感じられる。 祖母・伯父・伯母の愛情や地域の文化にくるまれて育ちつつも、父母やきょうだいと離れて暮らした日々はさびしさと隣り合わせでもあった。「幼い私は家族を恋しがり、家に帰りたいと祖母を困らせた記憶がある。その頃から私にとっていろいろな意味で“家”は遠くにあるもので、いまだにどこかで青い鳥を求めているところがあるように思う」。中学3年生のときに父を亡くした田中さんは、建築科のある新潟工業高校への進学をあきらめ、地元の普通科に進学。造り酒屋の仕事を手伝いながらの高校時代は、周りの愛に支えられて過ごしたが、卒業後は世話になった親戚にも告げずに故郷を後に。「おふくろには“建築の勉強をしたいから東京に行く。伯父さんには黙って行くけれどごめんね〟と言って」。 上京後は、日本大学建築学部の夜間部を経て、東京藝術大学へ進学。師や友との出会いにより、村上で育まれた思いが花開き、夢だった建築家への道を歩き始めることになる。 「向こう三軒両隣のさわやかな暮らしと美しいまちの実現」をめざす家づくり。そこにはいつも、生まれ育った村上の風景が息づいている。1234故郷を後にし、東京へ城下町村上での町家暮らし厳しい冬が春待つ心を育む1/高校3年生の修学旅行にて。2/神田司町にあった大林組の前で。3/藝大の製図室で没頭する田中さん。4/大学3年のときに設計した母親の家。(1〜4 写真提供:田中敏溥)

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