雑誌「チルチンびと」89号掲載 小笠原からの手紙
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127阿部 櫟斎 著『豆嶼行記』(写本)(国立国会図書館蔵 http://dl.ndl. go.jp/info:ndljp/pid/2536965)。2カ所に「秋蟬」、「蟬声」の記載がある。左/クロイワツクツク(♂)。見た目も鳴き声もオガサワラゼミとそっくりである。 右/1996年6~7月に父島で発生したクロイワニイニイ(上)とクマゼミ(下)。1994年3月に沖縄から導入して植えた樹の根元から発生した。クロイワツクツク(A~C)とオガサワラゼミ(D,E)の鳴き声のオシログラム(日本セミの会会報『CICADA』7巻1号〈1987年〉より)。別種とは思えぬほどよく似ている。上から /オガサワラゼミ(♀)の羽化。セミの羽化はいつ見ても美しい。 /脱け殻。ツクツクボウシの脱け殻に似ている。 /樹の汁を吸うオガサワラゼミ。針のような口を樹に刺して樹液を吸う。 /オガサワラゼミの交尾。♀と♂とが抱き合うように行う。右が♀、左が♂。 /産卵する♀。枯れ枝や樹皮の隙間に産卵する。*1 小笠原回収事業。小笠原諸島が日本領になるか、外国領になるかが微妙だった江戸時代の末期(文久元年〜3年)、幕府が実施した小笠原諸島を日本に回収するための事業。*2 中国古来の植物を中心とする薬物学。日本には平安時代に伝わり、江戸時代に全盛となり、中国の薬物を日本産のものに当てはめる研究から博物学・物産学に発展した。*3 http://dl.ndl. go.jp/info:ndljp/pid/2536965江戸時代にすでに父島に   「蟬」がいた!? ところが、冒頭に出てきた阿部櫟斎が遺した日記『豆ずしょこうき嶼行記』*3 ならびに『南なんしょこうき嶼行記』の中に、数カ所にわたって「蟬」の記述が出てくるのである! たとえば、『豆嶼行記』の文久二年閏八月廿五日(1862年10月18日)(土)の記述には「……独行 洲崎村 秋蟬耳ニ喧敷……」とあり、その後の九月六日(10月28日)(火)の記述にも「……風アリ怒濤声 蟬声……」とある。 また、『南嶼行記』には「(文久二年閏八月)十七日(1862年10月10日) 朝 百十度 ひとり山をこへて洲崎のウエブの妻の病を訪ひし、秋せみや名も無き山の道すがら」「蟬の形状は『ひぐらし』に似てやや大ひに ヂゞチー、ヂゞチー と一、きりつつに鳴て趣なし。九月十八日(11月9日)の朝より少しも蟬の聲なかりけり。のではないだろうか?「オガサワラゼミ」は     何者なのか? 筆者らは1994年以来、本種の謎を解くべく調査と研究を続けてきた。最近の遺伝子解析で、本種はクロイワツクツクにきわめて近いが、小笠原諸島に人間が住み始めた頃よりも遥か昔にクロイワツクツクと分かれた、独立した系統である可能性が示唆されつつある。そうであるとすると、本種はやはり小笠原諸島の固有種であり、「海洋島に分布する稀なセミ」であり、まさに天然記念物にふさわしい種であるということになるだろう。 鳴き止んで見れば淋しく秋の蟬」「この地は暖気にて江戸の気候に比例れば五月より八月までの候にて春夏秋ありて、冬なし。……『せみ』あり。」「(閏八月)廿四日(10月17日)……ひとり洲先へ行に秋せみは喧すし……」という記述があるのである。 さらに、小笠原諸島が日本領に確定した明治9年(1876年)以降の明治16年(1883年)に編纂された『小笠原島物産誌略』にも、「蟬ハ形状内地ノ茅蜩(ヒグラシ)ニ似タレモ鳴聲蟪蛄(ナツゼミ=ニイニイゼミ)ノ如シト云フ」という記述があるのである。 江戸時代末期や明治時代初期に記録された、これらの「蟬」とは一体何者なのだろうか……? 記録された時期が秋、「ひぐらし」に似た外観、騒がしい鳴き声……。これらの特徴から、これらの「蟬」は、どう考えても現在小笠原にいるオガサワラゼミそのものとしか考えざるを得ない「明治時代以降、琉球諸島から植物と共に持ち込まれた『外来種』なのではないか?」と考えられてきた。 実はこれを裏付けるような「事件」が父島で起きたことがある。1996年6〜7月に、父島の街中で小笠原からはまったく記録のない2種類のセミ、クロイワニイニイとクマゼミが発生したのである。筆者らの調査の結果、これらは1994年3月に、公園整備のために沖縄本島から導入した苗を植えた場所から発生したことが判明した。そのため、「オガサワラゼミ外来種説」は、ますます真実味を帯びることになった。クロイワツクツクオガサワラゼミ500ms/div.沖縄・名護 31℃沖縄・名護 31℃沖永良部島 25℃小笠原父島 30℃小笠原父島 28℃ABCDE1sec.

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