雑誌「チルチンびと」87号掲載 小笠原からの手紙
2/2

167 そして、今後、何よりも根本的に重要なことは、「新たな外来種を入れない」ための取り組みであろう。いったん侵入・拡散した外来種を駆除するためには膨大な時間・費用・人員が必要で、いかに困難であるかということは、本種の根絶までの歴史が証明している。とが発見され、メチルオイゲノールという成分が誘引物質として同定された。その後、アメリカ農務省が1940~1950年代にハワイ諸島で、この物質と殺虫剤をしみ込ませたテックス板*2 を大量に野外に設置し、オスを誘殺することで未交尾メスを増やし、本種の数を減らすことに成功した(雄除去法)。この結果を踏まえ、1960~1962年にかけて当時米軍統治下にあった小笠原諸島父島で、根絶をめざした防除実験が行われたが、根絶には至らず、原因不明のまま実験は中止となった。しかしその後、1960年代にマリアナ諸島のロタ島などでは根絶に成功した*3。 1968年6月の小笠原諸島日本返還直後から、東京都が本種の根絶事業とそれに関する研究を開始した。その結果、・小笠原の本種の一部に、メチルオイゲノールに誘引されないオスがいるらしいこと・本種は海を渡ること(父島─母島間を移動できること)が明らかとなった。 そのため、小笠原では雄除去法に加え、別種のウリミバエで行われている「不妊虫放飼法」も併用し、かつ、聟島・父島・母島の各列島を同時に防除すべきという方針となった。「不妊虫放飼法」とは、放射線(コバルト60)をあてて生殖機能を持たなくしたオス(不妊虫)を大量に飼育し、野外のオスを遥かに上回る数で放し続けて、野外のメスが野外のオスと交尾する機会を減らすことで次世代を減らし、やがて0にする、という方法である。 東京都は1975年から聟島・父島・母島の各列島で同時に、「雄除去法」の実施後に「不妊虫放飼法」を実施したが、月に300万匹の放飼では効果が出ず、1978年に各列島の同時防除をいったん中止し、各列島ごとの防除に切り替えた。その結果、1978年9月に聟島列島で、そして1981年5月に母島列島での根絶に成功した。父島列島は、放飼虫数を週300万匹から最大800万匹に増やすことで1983年10月にほぼ根絶を達成した。そして農林水産省による約1年間にわたる駆除確認調査が行われ、冒頭の官報への発表となったのである。 2015年、小笠原諸島は本種の「根絶」確定から30年を迎えた。それに先立つ2011年に、本諸島は世界自然遺産に登録されたが、その後もさまざまな外来種問題が「噴出」している。 そんな今だからこそ、十数年の期間を要しながらも、基礎的研究に基づき「根絶」に成功した、本種の根絶事業に学ぶことは多々あるのではないだろうか?あれから30年:小笠原の外来種問題の「原点」虫を放して虫を滅ぼすミカンコミバエの寄主植物(野生種)。右上から時計まわりに /ヤロード(固有種)/テリハボク/モモタマナ/シマホルトノキ(固有種)。上/不妊虫放飼容器を投下中のヘリコプター(東京都提供)。 右中/人工増殖されたミカンコミバエの蛹(東京都提供)。 左中/採卵容器に産卵するミバエ成虫(東京都提供)。 下/不妊化処理をした蛹をヘリコプターで放飼するための紙製容器(東京都提供)。2個が凧糸で繋がれており、木の枝に引っかかるようにしてある。右/「むし塚」。根絶事業で多数の虫(ミバエ)を殺生したことから、根絶が目前に迫った1983年に関係者有志によりミカンコミバエ不妊虫増殖施設の裏に建立されたもの。 左/1985年、根絶が確定し、関係者がミカンコミバエ防除対策室前で記念撮影(東京都提供)。*2 パルプかす、木材くずなどを圧縮してつくった板。 *3 その後、再侵入してしまったようで、現在では農林水産省植物防疫所により本種の発生地域に指定されている。

元のページ  ../index.html#2

このブックを見る