雑誌「チルチンびと」80号掲載 小笠原からの手紙
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1011789た。東京に行ったネコの物語に応える、島の鳥の物語がようやく始まった。 母島南崎の取り組みは、絶滅危惧種アカガシラカラスバト(愛称アカポッポ)の父島繁殖地におけるネコ捕獲へつながった。東京都獣医師会の受け入れ継続に支えられて、春から秋の母島南崎の捕獲、秋から冬の父島東平の捕獲がカレンダーに加わった。ともに後に行政が事業化することになる山域ネコの対策は、持ち寄りのスタートだった。特に最初の2年間、父島東平では、島民、すべての行政機関のメンバーが交代で、クリスマスもお正月も返上して、薄明薄暮の山に通い続けた。山中や半島でネコが捕獲され、船で東京へ送られる、淡々と繰り返される取り組みによって、幻の鳥のヒナたちが少しずつ確実に巣立っていった。 2010年、父島で島全体を対象とするネコ捕獲が行政事業として開始された。岩場を越え、沢をくだり、島のすみずみまで捕獲班が精力的に通い続けた。ネコの生息確認のために森には自動撮影カメラが設置された。の結びつきにもまだまだ誰も実感を持てなかった頃、写真が届いた。それは東京の獣医さんたちに馴じゅんか化されたネコの姿だった。 小さな催し物を開催して、届いた写真や手紙を島で紹介した。丸3カ月かかったネコもいるという馴化の話、動物病院で見初められて新しい飼い主さんにもらわれていった話、いくつもの心動かされるその後の話が届いた。しかし、なにより目を奪われたのは、ネコたちのやわらかい表情だった。それは小笠原では見せたことのない姿だった。カゴの中で暴れ、うなり声をあげ、人を睨みつける、おびえて後ずさりする、島では彼らは一様に「凶暴な」あるいは「極端に人を恐れる」ノラネコだった。東京からの写真には、ペット(家族)として暮らし始めた1頭1頭の個性と物語があった。生まれ変わった彼らの表情に、小笠原におけるネコの人との関わりを改めて考えさせられた。 母島南崎では、柵の維持とネコの捕獲が続いた。それは、梅雨の山道を濡れながら進むことであり、海に突き出た半島の草原で巣穴を探すことであった。また、焼けた赤土の裸地でネコの足跡を探すことであり、台風の通り過ぎたあとの気が遠くなる柵の補修作業でもあった。 柵の設置、海鳥の調査、ネコの捕獲と、母島の島民、父島から通う私たち、我々NPOの研修学生など、たくさんの人が南崎へ通った。捕獲開始から3シーズン目の秋、オナガミズナギドリの巣立ちが確認された。南崎では少なくとも5年ぶりとなる繁殖成功。わずか3例ながら、ネコの捕獲が海鳥の回復につながることを証明する出来事だっ捕獲数の増加に備え、週1便のおがさわら丸を待つ間の一時飼養施設が必要になり、民間助成金を得て私たちが設置した。中古プレハブは、島民のアイデアで取り組みを伝える施設にドレスアップ、「ねこ待ち」と呼ばれるようになった。同時に、東京都獣医師会による派遣診療が実施され、島内の飼いネコの不妊去勢や適正飼養も進められた。 2014年春、東京への引っ越しネコは380頭を超えた。父島の山域ではネコは10〜20頭レベルにまで低下した。取り組みは確実に種子を育み、2009年頃から花を咲かせるようになる。母島南崎ではミズナギドリの巣立ちが毎年続くようになり、過去見られなかったアカポッポの若鳥が出現し、羽色からクロポッポと親しまれるようになった。2012年の夏からは、若鳥の集団が集落や公園など海岸沿いに現れ、幻の鳥は、多くの島民や観光客に目撃されるまでになった。 現在の状況はまだ安定的なものといえず、手を緩めればすぐに元に戻る危うい段階だ。しかし、10年を超えて現在進行形で続いている、海を越え、個人・民間・行政を超えた希有な協働は、小笠原の絶滅危惧種の明日に確実に明かりを灯している。それから—父島の東平絶滅の淵から雲をつかむ話それから—母島・南崎9:東京都獣医師会による派遣診療団2013。民間助成事業として始まり村に受け継がれた。希少種保全のためのペットの適正飼養を牽引する。多くの医療メーカの協力も得て実現。 10:通称「ねこ待ち(ねこ待合所)」は、民間助成金で建てられた。正式名称は「山域捕獲ネコ一時飼養施設」。開所式には大勢の人が訪れた。 11:「ねこ待ち」の壁面にある東京引っ越しネコのタイルはちょっとした名物。観光客も記念撮影していく。捕獲ネコの見学はNG。7:受け入れ動物病院で実現した、小笠原ネコの同窓会。 8:飼い主に抱かれてやさしい表情を見せる小笠原ネコ。153

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