雑誌「チルチンびと」84号掲載 京都大原の山里に暮らし始めて
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6 そんなある日、バナラシで知り合ったアメリカ人のアーサーから香港行きの航空券を貰った。彼は兵役を逃れるためアメリカを出てインドに着いたところだった。 その航空券で香港に着いたベニシア。所持金が乏しいので香港の入管は難しい状況だった。それで友人の友人の世話になることに。友人から聞いていた香港で働くイギリス人ビジネスマンに連絡したのだった。彼は見ず知らずの人を助けなければならないことになる。台湾行きの船のチケットをベニシアに買って与えた。 台湾に着いて、どうしようかとYMCAで途方に暮れていたところに、30代半ばの見知らぬ台湾人ビジネスマンが声をかけてきた。アメリカからのお客さんを案内しなければならないので、彼の英語をチェックして欲しいと言う。その仕事を3日間ほどやると、ベニシアは日本行きの船のチケットを買うことができた。 そうしてようやく鹿児島港に船で到着することができた。彼女が持っていた日本の情報は「Tokyo Fugetsudo」だけ。そこへ行けば、外人が多いし何かの情報が得られるだろうとインドで聞いていたのだ。鹿児島から東京までの距離もわからずトラックをヒッチハイクしたら、大阪淀屋橋で降ろされた。仕方がないのでお巡りさんに「Tokyo?」と聞いたら「あっち!」と彼は指差した。「No money」と答えたら、そのままパトカーに乗せられてしまった。このまま刑務所へ連れて行かれるのだろうか、ベニシアは不安になってきた。ところが高速道路入り口でお巡りさんはトラック運転手に何やら質問している。2〜3台に聞いた後、お巡りさんは大声で叫んだ。 「Tokyo OK ! 」。 嬉しかった。でも、ギンギラに装飾されているトラックが不気味に思えた。夕方、運転手さんはサービスエリアで、卵丼をおごってくれた。ほぼ2日間、何も食べていなかったので、お腹がぺこぺこだった。食事が終わると運転席の後ろにあるベッドで眠るように言われた。その人は少し英語が話せたのだ。ヌードポスターが壁中に貼られたそのベッドルームは怖かったが、ベニシアはいつの間にか寝てしまった。翌朝、目を覚ますと新宿の風月堂の前だった。世界中にこんな親切な人々がいる国って他にあるだろうか……? 日本でのベニシアの生活が始まった。 前号でも触れたが、ベニシアは子どもの頃にケドルストンホールで見た日本の陶器が記憶に残り、日本へ行きたいと思っていた。それらの陶器を集めたのは曾祖父の兄であリ、政治家のジョージ・ナサニエル・カーゾン(1859〜1925)であった。つい先日、カーゾンが日本に滞在したときの日記『Lord Carzon's Japan Diaries』の翻訳書(日英文化交渉史研究会発行、吉田覚子訳)を手に入れることができた。それによるとカーゾンの2回にわたる日本滞在vol.22恵みの風が吹く6月初旬、庭に咲いたツクシイバラ。ツクシとは九州の筑紫。かつて野原に多く自生していたが、現在は希少種。 20歳のベニシアが日本に初めて来たときの冒険談を続けよう。 1971年春、ベニシアは瞑想の先生プレム・ラワットからインドを出てイギリスに帰るように言われた。母ジュリーがイギリス行きの航空券を手配してくれていたが、彼女は母国へ帰るつもりはなかった。お金はなかったがプレム・ラワットの応援のことばを信じて歩み出そうと決めていた。 「必ず恵みの風が吹くでしょう」。

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